水無瀬絵図 + 七夕伝説
藤原定家が編纂した小倉百人一首。
それは、今でいうジグソーパズル。
キーワードをつなぎ合わせると、そこに浮かび上がるのは水無瀬絵図。
前回の記事で、そのように触れました。
今回付け加えるのは、以下の内容です。
百人一首で登場する天皇は、以下に示した8名。
・天智天皇(第1番)
・持統天皇(第2番)
・陽成天皇(第13番)
・光孝天皇(第15番)
・三条天皇(第68番)
・崇徳天皇(第77番)
・後鳥羽天皇(第99番)
・順徳天皇(第100番)
彼らの歌番を赤枠で囲ってみました。
ざっとですが、右上(南西)から左下(東北)に並んでいますね。
天の川と同じです。
この『天』とは、すなわち天皇のことですね。
余談ですが、歌の中には、『あまの小舟(第93番)』とか、『あまのつり舟(第11番)』とか出てきます。
これらも朝廷(天皇)のことですね。
あからさまに言えないので、ぼかしているのでしょう。
一方、禁断の恋仲である藤原定家(第97番)と式子内親王(第89番)
彼らは南東と北西のそれぞれ角に位置しています。
これらは、彦星(アルタイル)と織姫星(ベガ)の位置に対応していますね。
すなわち、七夕伝説ですね。
図には示していませんが、『かささぎの渡せる橋』の登場する第6番歌。
左から5行目の3列目です。
心なしか、彦星と織姫星の間にあるようにも思えます。

夏の夜空。
東を向いて見上げると、このような配置になります。

百人一首に秘められた思い。
やはり、水無瀬絵だけではなかった。
歴代天皇という天の川が、二人の間を遮っています。
藤原定家は、貴族とはいえ中流以下。
一方の式子内親王は、院政で絶大な権力を誇った後白河上皇の皇女。
藤原定家と式子内親王では、所詮、身分が違うんですね。
逢いたくても逢えない。
この思いもまた、百人一首に込めたんですね、きっと。
800年の時を経て、私がここに公開します。
小倉百人一首 第5番 (再考)
第5番
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫(男)
以前にこの歌の解釈を書いたのだが、重要な点でその解釈が根本的に間違っていることに気がついた。
『鹿』の解釈である。
と同時に、一部の歴史家により噂される重大な事象を暗示していることにも気がついた。
和歌において、一般的には、鹿は『武士』だと解釈できる。
だがこの歌が詠まれたのは、元明天皇(第43代、在位:707年~715年)の時代。
武士の台頭だと考えるには、時代が早過ぎるのである。
詠み人は、猿丸大夫。
いわゆるペンネームであり、実存を疑う説もあるそうである。
要するに、絶対に名前を明らかにできない、匿名にせざるを得ない状況があったということである。
実は、この歌によく似た歌がある。
小倉百人一首を編纂した藤原定家。
その父である俊成が詠んだ次の歌である。
第83番
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成
誰にも気兼ねをすることなく、堂々と実名を曝している。
そもそも、身分が下である『鹿』を相手に気兼ねをする必要は、命に危険が及ばない限りさほどないはずだ。
だから逆に言えば、猿丸大夫はこの歌を詠むに当たり、命の危険を感じていたに違いない。
(この先は限定記事にします)
水無瀬絵図には、七夕伝説が秘められていた
小倉百人一首の水無瀬絵図。
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2748.html
重要な点を見落としていました。
北西に位置する式子内親王と、南東に位置する藤原定家。
二人は恋仲だったんですね。
年齢的には、式子内親王の方が、一回りも上になりますが。
相思相愛だったようですが、何らかの障害があって、仲を引き裂かれたようです。
式子内親王 (ウィキペディアより)
藤原定家との関係
藤原俊成の子定家は1181年(治承5年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが、詳細ははっきりしない。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。
後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、
いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし
— 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四
この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』等の文芸作品を生じた。また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた、あるいは定家の父藤原俊成も彼等の仲を知って憂慮していた等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にある。
恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘もある。
北西に位置する式子内親王と、南東に位置する藤原定家。
相思相愛だったようですが、何か障害があって、後鳥羽院に仲を引き裂かれた。
そういう説もあるそうです。
きっと、夜空を見上げながら、物思いにふけったのでしょう。
するとそこには、こんな星空が…。
http://www.nikon.co.jp/channel/stars/1307/index.htm

(注:見上げているので、東西が逆になります)
北東から南西に伸びる天の川。
その北西側には織女星(ベガ)が、その南東側には牽牛星(アルタイル)が輝いていました。
七夕伝説ですね。
仲を裂かれ、年に一度しか逢えなくされました。
ところで、陰陽道では、西と北が陰、東と南が陽とされています。
その境が鬼門(北東)、裏鬼門(南西)とされています。
この鬼門と裏鬼門を結んだ線が陰陽の境となるわけですが、これは天の川の伸びる方向とも一致しているんですね。
(というか、起源を辿って行ったら、元々はそういうことだったということかも知れませんね)
藤原定家が選んだ小倉百人一首。
その中に水無瀬絵図を隠しました。
さらには、自分(藤原定家)を南東に、式子内親王を北西に配置し、自分の変わらぬ思いを人知れずそっと秘めた。
長い歴史を乗り越え、後世にまで遺すために、、、
これが、本当の目的だったのかも知れませんね。
水無瀬絵図の解釈
小倉百人一首の水無瀬絵図。
欠けていた左三列分のキーワードを含む、すべてのものです。
各カラムの数字は、歌の番号です。

左上の隅は、式子内親王(第89番)。
安徳天皇の叔母です。
右上の隅は、順徳天皇(第100番)。
左下の隅は、後鳥羽天皇((第99番)。
顕徳院とも呼ばれます。
右下の隅は、歌の選者である藤原定家(第97番)
天皇は8人選ばれています。
残り6人は、天智天皇(第1番)、持統天皇(第2番)、陽成天皇(第13番)、
光孝天皇(第15番)、三条天皇(第68番)、崇徳天皇(第77番)。
なかなか意味深ですね。
選ばれた天皇も、その配置も。
もう一度、水無瀬絵図を見てみましょう。
京都ほど明確ではないですが、風水を意識させられる土地柄ですね。
だからこそ、離宮が建てられたのでしょう。

四神です。
東の青竜(せいりゅう)・南の朱雀(すざく)・西の白虎(びゃっこ)・北の玄武(げんぶ)。
北の玄武は山、南の朱雀は広がる平野または海。
東の青竜は川、西の白虎は道路を表わすそうですが。
方位を少し左に傾けると、概ねこの配置に一致します。
離宮は水無瀬川の西にあります。
一方、選ばれた天皇。
いわゆる四徳:崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇のうちの、3人までもが選ばれています。
安徳天皇は幼少であり歌を残せなかったので、その代わりとして叔母の式子内親王が選ばれているように感じられます。
実質的には4人全員ですね。
この四徳の「徳」の字。
井沢元彦によると、「殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られた美称」
何度か紹介していますが、いわゆる呪いの文字ですね。
諡(し、おくりな) (ウィキペディアより)
諡字による諡号の意味
日本の諡号に用いられた諡字について、次のような説がある。
「徳」‐殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られた美称である(井沢元彦の説 - 逆説の日本史より)。
・元々は懿徳天皇や仁徳天皇のように、本当に徳のある(と考えられた)天皇に贈られた。
・飛鳥時代末期から鎌倉時代初期にかけて、皇太子に実権を握られ都に置き去りにされ崩御した36代孝徳、藤原良房と対立したために内裏に住むことができなかった55代文徳、流刑先で崩御した75代崇徳、82代顕徳(後に後鳥羽と改めた)、84代順徳、平家滅亡の際に入水した81代安徳が該当する。また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。なお井沢説によると、徳の諡字が怨霊封じとして贈られた最初の例は(天皇ではないが)聖徳太子とされる。
・ただし怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり、「顕徳」の諡号を贈った天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「後鳥羽」の諡号を贈り直す事となり、怨霊封じとしての徳の字の使用は終焉した。
・南朝の96代後醍醐天皇には、当時対立していた北朝から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある(実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された)。
・「四徳」や「元徳」は、追号が続いていた時代に諡号を贈られたこと自体が、異例のことである。
これらの天皇を、この水無瀬絵図(10×10)に配置してみましょう。
順徳天皇は右上の隅。
方位でいえば東北の角、つまり鬼門の方角。
陰陽道では、鬼が出入りする方角であるとして、万事に忌むべき方角だとされています。
後鳥羽天皇(顕徳院)は、左下の隅。
方位でいえば南西の角、つまり裏鬼門の方角。
鬼門と同様に忌み嫌われる方角ですね。
式子内親王(安徳天皇の叔母)は、左上の隅。
方位は北西。
右下の隅は、藤原定家。
方位は南東。
これらの配置は、偶然の結果ではないですね。
明らかに最初からこう意識して、注意深く選ばれたというべきでしょう。
一方、崇徳天皇は、この水無瀬絵図(10×10)のほぼ中央に位置しています。
これらから、選者の藤原定家は、後鳥羽天皇、順徳天皇を忌み嫌っていたことが窺えますね。
それに対し、崇徳天皇に対しては、世間の噂とは逆に、特に彼を嫌ってはいなかったことが窺えます。
安徳天皇に対しても、同様というか、悪い意味での特別視はしていないですね。
まとめると、、、
崇徳上皇vs近衛・後白河天皇の対立は、崇徳天皇側が正統、近衛・後白河天皇は閏統。
安徳天皇が正統、先帝の譲位も崩御もないまま不自然な即位をした後鳥羽天皇は閏統、その子順徳天皇も同じく閏統。
(注:閏統は偽物ではないが、正統よりは格が下がるという意味)
藤原定家は、小倉百人一首を選んだ中で、何気にこう後世に伝えたかったように、感じられます。
ちなみに、これらへの認識は、私も全く同じです。
歴史を知ると、こういう結論に落ち着きます。
小倉百人一首 終盤の歌
小倉百人一首。
終盤の歌を簡単にまとめてみました。
この時期に皇統図は、以下のとおり。
(ウィキペディアより)

第77番
瀬を旱み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ
崇徳院
崇徳上皇と近衛天皇の間で、皇室が割れたこの時期。
崇徳上皇は、仲良くして欲しいと願っていたようですね。
第79番
秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月の影のさやけさ
左京大夫(藤原)顕輔
左京大夫(藤原)顕輔は、崇徳天皇に重用された人物。
崇徳天皇は譲位し上皇になった後は、和歌の世界に没頭し優れた功績を残している。
秋は、近衛天皇による治世が衰退し始めたことを指す。
月は皇位を退いた天皇、すなわち崇徳上皇を指す。
近衛天皇の治世に衰えが見えてきたが、その一方で崇徳上皇の爽やかさが際立っている。
そういう崇徳上皇を称える趣旨である。
第80番
長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝(けさ)はものをこそ思へ
待賢門院堀川
待賢門院堀河は、崇徳、後白河の両名の母:藤原璋子に仕えた人物。
争いの原因を作った当人を、間近で見てきた人物です。
その後皇室を分かち長く続く確執・対立は、白河上皇が自分の孫:鳥羽天皇の后と浮気したことから始まりました。
ここまでこじれると、もはや手の打ちようがないという、諦めの気持ちが感じ取れます。
次からは、六条天皇や、平家とともに滅んだ安徳天皇に関する和歌が出てきます。
(ウィキペディアより)

第82番
思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬは涙なりけり
道因法師
道因法師は、平安時代後期の人物。
生後8か月で即位し、3歳で退位させられた第79代六条天皇。
その後元服を行うこともなく11歳で崩御。
彼に対する冷たい扱いを嘆いた歌であろう。
第83番
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫(藤原)俊成
皇太后宮大夫(藤原)俊成は、平安時代後期から鎌倉時代初期の人物。
奥は天皇の住む御殿。
鹿は武士。
武士:源氏、平氏の台頭により、朝廷の権威・権力が低下してきた。
道理がなくなりつつある様を嘆いた歌である。
第89番
玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶることの弱りもぞする
式子内親王
式子内親王は、安徳天皇の叔母。
玉は勾玉、すなわち天皇家を指す。
長い間にわたって代々継いできた皇位と天皇家。
安徳天皇が源氏に暗殺され、いまその終焉の危機にある。
必死に耐えているが、それももう少しでくじけそうだ、という気持ちを表した歌である。
第91番
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもかた敷きひとりかも寝む
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
後京極摂政前太政大臣(藤原良経)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
アリとキリギリスというイソップ寓話があるが、その寓話の中でのキリギリスは、鳴くだけで働かない。
この歌にあるきりぎりすも同様に、和歌を楽しむだけで働かない公家を、痛切に風刺したものであろう。
秋が深まって霜が降るほどの寒さがやって来たら、案の定、冷たいむしろで寝る羽目になってしまった…。
歌を詠むだけで働かないし何の準備も貯えもしないから凋落し、武士に権力を奪われてしまった。
そういう嘆きや後悔を表した歌であろう。
第93番
世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟の綱手かなしも
鎌倉右大臣(源実朝)
鎌倉右大臣(源実朝)は、鎌倉幕府第3代征夷大将軍。
あまのを舟とは、天皇および朝廷のことであろう。
その舟を綱で引っ張っているのは、自分たち(源氏の)武士だ。
こういった世の中が、ずっと続いてほしいものだ。
天皇家と対比させるため、武士の代表としてこの歌は採り上げられている。
第97番
来ぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
権中納言(藤原)定家
権中納言(藤原)定家は、この小倉百人一首の選者である。
後鳥羽上皇に引き立てられ、のちに確執から謹慎処分を受ける。
後鳥羽上皇の失権に伴って復権を果たす。
第98番
風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける
従二位(藤原)家隆
風がそよぎ、小川がせせらぐ平穏な日々。
これは春だろう、つまり新しい天皇(後鳥羽天皇)による治世が始まったことを示す。
夏は、その治世が軌道に乗ったことを示す。
安徳天皇が追われ、天皇が都に不在になったことから、政務が滞るようになった。
安徳天皇が退位しない状況の中、神器のないままで即位した。
(したがって、この時期には天皇が二人いたことになる)
このことが後々まで、後鳥羽院のコンプレックスになっている。
神器のないまま、不自然な即位をしたのだが、世の中には嵐が吹き荒れることもなく、川の水が溢れ出すようなこともない。
極めて平穏無事に過ぎている。
これは新しい天皇が世間に認知されたということ、すなわち禊は済んだということを示している。
さあ、思いっきりやって下さい、そんな趣旨の歌であろう。
第99番
人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は
後鳥羽院
朝廷から公家に権力が移り変わる、まさにその過渡期に存在した天皇。
後に承久の乱を起こし、武士への抵抗を図るが、あえなく敗退。
捕まえられ、隠岐の島へ流される。
別名顕徳院。
『徳』の字のつく天皇である。
第100番
ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなほあまりある昔なりけり
順徳院
後鳥羽天皇の子。
承久の乱で敗退し、佐渡へ流される。
広い御殿に住んでいたのだが、いまとなってはもう遠い昔のことのようだ。
こういう趣旨の歌である。
小倉百人一首は、ジグソーパズルだった!!
藤原定家が選んだ小倉百人一首。
珠玉の一首がある一方で、いまいち趣旨の分かりにくいものがあるのも事実。
でもその謎も解けました。
これは、キーワードを選んでいたためだったんですね。
また、こういった壮大なテーマがあるのであれば、歴史に残る理由も納得できます。
キーワードを組み合わせ、縦横各十首ずつを並べます。
するとそこには、水無瀬の絵図が浮かび上がります。(うち、右横七首×縦十首で)
後鳥羽上皇が、水無瀬離宮を造営した場所です。
彼は第99番歌の作者でもあります。
小倉百人一首は、明らかに後鳥羽上皇の存在を意識して、作られたんですね。
彼への複雑な思いです。
引き立ててもらった一方で、確執から謹慎処分へ。
その後、後鳥羽上皇が都から追放されたことにより、運良くリベンジを果たしました。
波乱万丈ですね。
下記サイトでは、個々のピースと和歌がリンクしています。
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/hyakunin02.html

図にない部分(三十首分)も気になりますね。
また、この絵図には、さらに何かが隠されているのかも知れませんね。
わくわくします。(笑)
何か分かったら、また書こうかと思います。
小倉百人一首 第21番、第23番
今いろいろと調べているんですが、百人一首の中には、隠語が隠されていますね。
春夏秋の季節は、その天皇による治世が開始し、軌道に乗り、そして凋落し終焉を迎えることを示しています。
このあたりは容易に想像できますね。
鹿が武士を表していることは、以前の記事で述べました。
現在気になっているのは、「月」
天皇が太陽神であることは、天照大神から分かりますね。
その一方で、月は同じように天空を回りながらも、太陽ほどには輝きません。
となると、これは既に退位した天皇、すなわち上皇や、出家していれば法王を指すものと考えると良さそうです。
特に、「ありあけの月」なんかは、その象徴的な表現ですね。
ありあけの月とは、翌日、すなわち次の朝になっても、空にぼんやりと浮かんでいる月。
代替わりして、権威を失なった上皇(あるいはその血統)とみるべきでしょう。
下記の記事でも、そのように触れました。
崇徳天皇の噂は本当かも
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2645.html
これをキーワードとすると、第21番歌、第23番歌の真意が読み取れます。
第20番に、第57代陽成天皇の第二皇子である、元良親王の歌があります。
元良親王と関係があるということです。
元良親王は、下記の歌を詠んで、謹慎させられてしまいます。
そのお相手が、宇多天皇の妃(藤原褒子)だったためで、まぁ仕方のないことですが、でも本来ならば元良親王が天皇になっていてもおかしくはなかった、という事実があります。
陽成天皇からすれば、元々は宇多天皇は自分の家来だったからです。
血統上は、陽成系が直系であり、光孝系は傍系なのですね。
(ウィキペディアより)

第21番、第23番歌は、この元良親王の処遇を巡って作られた歌ですね。
以下に、これらの歌の真意を述べます。
第20番
わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王
元良親王とは、第57代陽成天皇の第二皇子です。
陽成天皇は、9歳で即位しましたが、粗暴な行ないにより17歳で退位させられた天皇です。
(ただし表向きは、病気による自発的な退位)
第21番
今来むと いひしばかりに 長月の 有明けの月を 待ち出でつるかな
素性法師
素性法師は桓武天皇の曾孫で、(第54代)仁明天皇から(第59代)宇多天皇の時期の人物。宇多天皇の時代に、しばしば彼の歌会に招かれている。
有明の月とは、夜が明けても空に残っている月、つまり退位した天皇(上皇)。(第57代)陽成院を指しているものと思われる。長月とは陰暦9月で、秋の最後の月。つまり権威・権力のすべてをほぼ失なった状態を示す。
若くして退位した陽成院。血統は既に傍系の(第58代)光孝天皇系へと移っている。作者:素性法師は、再び直系である陽成院系へと戻し、彼の親王である元良親王が即位することを、もう長い間、今か今かと期待している。
第22番
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を 嵐といふらむ
文屋康秀
第23番
月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
大江千里
大江千里は第59代宇多天皇に仕えた人物、個人名であり、職位でないことに注意。つまりこの歌は、個人的な見解である。宇多天皇の側からの意見ではない。
月を先帝の血統と解釈すると、(第57代)陽成院の元良親王を指しているものと思われる。
秋は既に権威・権力が移行し、失なってしまった状態を示す。陽成院と宇多天皇の不仲を嘆いた歌である。私(大江千里)だけが感じているわけではないのだが…、悲しくなってくるが、もう元良親王の即位はないのであろうか、そういう思いである。宇多天皇に仕える立場上、こういうことは非常に言いにくいはずである。だからこそ、個人名なのである。
和歌は、言霊
日本の和歌は、言霊に基いて、大自然と接しようとしたのが、その始まりだそうです。
日本の国歌:君が代も、歌詞は元々は古今和歌集にある和歌です。(注:作者不詳)
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
巌(いわお)となりて
苔(こけ)のむすまで
この言霊に基いて、祈りをささげているんですね。
特に、天皇の詠む歌は、国の代表として、神に祈りをささげる歌。
だから、皇室行事で一番大切なことでもあるのだそうです。
君が代を読むと、なるほどたしかに、祈りの歌ですね。
この国の永い繁栄を祈願する歌です。
優雅な遊びだとばかり思っていましたが、それは和歌のいち側面に過ぎなかったようです。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55599079.html
2014年05月14日
中杉博士の大説法190 大日本帝国は生きている 53 言霊(ことだま)
我が国は昔から「言葉が生きている」という思想があります。言葉は生きているということを『言霊(ことだま)』といいます。「言葉は魂だ」ということと同じ事です。古来より日本では災いが起きてくる時、地震を鎮める時、和歌をもって大自然と接触しようとしたのが和歌の始まりです。和歌は外国にはなく日本独自のものです。
この『言霊』というものが、現在でも伝わっていて日本人は和歌を作り続け、和歌と共に生きてきたのです。皇室行事で一番大事な事は、和歌をつくることであり、教養の第一位にあげられる事は、和歌をつくる能力です。そのくらい言葉を大事にしてきたのが、わが民族なのです。
『言霊(ことだま)』というのは、よく考えてみると「言葉が魂」ということです。まず第一番に嫌うことはウソをつくことです。ウソをつくことが許されるなら、『言霊』は生まれないのです。ウソは仮無です。実際に無い事を言葉で表すのですから、事実ではないのです。ウソと『言霊』は正反対の関係にあります。
言霊を大事にしてきたわが民族は、ウソを嫌ってきたのです。このくらいウソを嫌ってきた民族はいません。この世を去るにあたり、優秀な人達は『辞世の句』をつくったのです。これも言霊です。吉田松陰の言霊は何かというと、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」です。
三島由紀夫の辞世の句は、「益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」「散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐」です。三島由紀夫は辞世の句は、二つあります。
これも和歌です。和歌とは言葉を持って、この次の生につなげていこうとすることなのです。事を成した人は、辞世の句を残しているのです。
また、関東一円を治めた北条早雲は、家訓が残っています。「これから、このように守っていかなければならない」と言葉で残しています。その第一条が、「ウソをつくな」ということです。北条早雲の家訓の第一条は「ウソをつくな」ということです。
考えてみてください。ウソをつくなら、人間は簡単に何でも成れるのです。ノーベル賞学者にも成れるのです。東大にも入れます。大資産家にもなれます。「皇室の血筋を引く」とも言えます。いくらでも中身のないウソなら言えます。聞いた人は、騙せるかもしれませんが、そのような言葉を発していくとその人は中身がなくなってしまいます。ウソをつけば、簡単に何にでも成れるのです。
東大に入るためには、何年間も塾に通い努力しなければ入れません。それが簡単に「俺は東大が出身校だよ」とウソをつくと、この一言で努力は消えて「東大」という結果が得られるのです。ウソをつけば、「俺の家は昔、男爵だ」とも言えます。「私は有栖川宮家の御落胤だ」と言った馬鹿もいます。未だに「殿下」と呼ばれているのです。
何の努力もせずに、ウソくらい簡単になれるものはないのです。「私は今こんな状態ですが、ニューヨークに行けば大富豪です」という人間もいます。ウソをつくと、何でもできるのです。それは、ウソをつくごとに『言霊』の響きを失って、言葉の意味がなくなってしまうのです。最終的には、「あいつはウソつきだ」ということになり、何を言っても信用されなくなります。「あいつは、ウソつき、ホラふきだ」というレッテルが貼られてしまったら、誰もその人間に信をおかなくなってしまいます。
「お金貸してくれませんか?」と来ても、ウソつきと分かったら誰もその人間にお金など貸しません。「本当に生活が困っているので、助けてくれませんか?」と言われても、「お前、ウソつきだろ、助けないよ」と言われてしまいます。「ウソつき」というレッテルを貼られたら、何を言ってもダメなのです。何もできません。
社会がそれを認めたならば、それは人間のクズなのです。「ウソつき」と言われたら人間のクズです。クズと一緒に仕事をする人間はいません。クズと人生を歩む人間はいないのです。ウソをつくということは、「人間のクズだ」という証明になって人生が終わってしまうのです。
このようにウソというものは、簡単に始まって、恐ろしい結果を招くのです。昔の人は「ウソつきは、ドロボウの始まり」とよく言ったのです。ウソをつくとはそういうことなのです。結局、事実とは違うことを言うのですから、「人がお金を持っている。あれを取ってしまおう。あれは俺のお金なのだよ。取ってもいいのだ」という理論になってしまうのです。ウソなのです。
統一教会も大ウソがあります。「韓国は神の国で、日本は悪魔の国である。日本から財産を奪って神の国に返さなければならない。これを復帰原理という。全ての日本の財産を韓国の神様(文鮮明)に返さなければならない」そのような論理を教えて、日本人の財産を奪ってきた文鮮明は、ヘリコプターが撃墜されて、黒焦げになって死んだのです。最近死んだ文鮮明は偽物です。文鮮明はヘリコプターで死んでいるのです。ウソはその身を滅ぼすのです。これが大事なことです。
薩摩では、「義(ぎ)を言うな!」ということです。「ウソをつくな!」ということです。薩摩は、郷中(ごうちゅう)制度があります。1軒の家で男子は、12歳くらいから、23歳くらいまで一緒に生活をするのです。そこで一番上の兄貴分がいるのです。そこで、徹底的に教育をされるのです。郷中教育の頭が西郷隆盛です。みなから慕われていたのです。そこで、どんどん組織ができて、彼等が教えることは、「義(ぎ)を言うな!」です。屁理屈を言と、「義(ぎ)を言うな! 行動で示せ。お前の言う言葉は意味がない」と言われてしまうのです。「ウソを言うな」ということうです。「グチャグチャいう前に、体で行動しろ!」、これが薩摩の教えです。
生麦事件(1862年)の時に、薩摩の行列が東海道を通った時に、その前を英国人が馬に乗って通り過ぎたのです。それでもう終わりなのです。誰も「アイツをやっつけろ!」と言いません。藩士が走って行って、いきなり切り殺したのです。「義(ぎ)を言うな!」という教育です。ともかく、「殿様の前を通る無礼者がいたら、ただちに行動しろ!」これが薩摩の怖さなのです。討論して「ああだ」「こうだ」と言わないのです。討論はないのです。直ちに行動です。
彼等の剣法の示現流(じげんりゅう)もそうなのです。普通は、袴に着替えて稽古に行くのですが、そんな事はしないのです。野良着でいいのです。ジーパンでよいのです。敵がどこから出てくるか分かりません。その時に袴をはいたりしないのです。台所にいる人はそのまま、野良仕事をやっている人はそのままの格好で、敵と対戦しなければいけません。これが示現流の考え方です。これも、「義(ぎ)を言うな!」に通じています。
人間は一旦帰って「ああだ」「こうだ」とい議論していたら、行動はできません。黙って行動するのです。
これは三島由紀夫の『行動学入門』という本に詳しく書いてあります。「義(ぎ)を言うな!」ということです。このような行動は、言霊として日本精神として伝わっていて、非常に需要な教えであり、ウソを言わない日本人です。ウソを言わないとは、真面目な日本人ということです。日本人が尊敬されるのは、ウソをつかないということです。
正直で、素直ではったりもかまさない、泣いたりわめかない、黙って行動するのです。それが日本精神です。その精神が今でも日本精神として日本人の中に生きています。
早雲寺殿廿一箇条(北条早雲の家訓)
一、上下万民すべての人々に対して、言半句たりともうそをいうようなことがあってはならぬ。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。うそをいっていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れがいった言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにもうそはいわぬように心掛けなくてはならぬ。
小倉百人一首 第15番
今回は第15番です。
私なりの解釈を、下記に述べます。
なお、ねずさんの解釈はこちらです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2175.html (13~15番歌)
第15番
君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ
光孝天皇(男)
(人物及び時代背景)
第58代光孝天皇は、第57代陽成天皇が退位したのち55歳で即位した。
彼は、先帝である陽成天皇の祖父の弟に当たる。
当時としては、異例の高齢での即位であった。
9歳で即位した陽成天皇は暴君との評判があり、摂政だった叔父藤原基経により嫌われていた。
遂には宮中で乳母が撲殺される事件があり、強制的に退位させられている。
(注:ただし表面的には、病気による自発的退位である)
僅か17歳の若さであった。
若菜とは、この陽成天皇のことであろう。

(歌の解釈)
通常君は天皇のことを指すが、光孝天皇は天皇であるため、ここでの君は天下万民を示す。
春の野に出でては、天皇に即位して治世を行ない始めたことを示す。
その結果、まだ若い芽を摘むことになった。
兄の孫にあたる陽成天皇の退位である。
暴君だったとはいえ、前途あるまだ若い天皇を退位させてしまった。
争いにならないよう、あえて傍系で年配の光孝天皇が選ばれたのであろう。
天皇に即位するということは、本来ならめでたいはずなのであるが、こういう経緯があるから素直には喜べず、自分の心の中には冷たい雪が降っているのである。
そういう複雑な気持ちを詠んだ歌であろう。
心優しい人柄が伺える。
たとえ天皇であろうとも、暴君であれば退位させる。
そんな治世を行うのが、我が国日本の姿である。
これも合わせて理解できよう。
なお、百人一首の選者である藤原定家は、天智天皇・持統天皇の場合と同じように、天皇家が分裂しかねない状況に陥った場合、双方の歌を取り上げている。
中立性・公平性を保つためであろう。
諸外国では、歴史は勝者が一方的に作るのが一般的なのだが、それとも一線を画していることが分かる。
この歌の趣旨は、私には、このように感じましたが。
読者の皆さんは、どうだったでしょうか?
小倉百人一首 第11番
今回は第11番です。
私なりの解釈を、下記に述べます。
なお、ねずさんの解釈はこちらです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2166.html (10~12番歌)
第11番
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣り舟
参議篁(男)
(人物および時代背景)
参議篁(たかむら)。
参議は公職の名称。
本名は小野篁。
遣唐使の副責任者として派遣される予定であったが、2度も嵐に遭い遭難しかけた。
3度目の出発の前には損傷した船を押しつけられ、その理不尽な振る舞いをした上司と争いになった。
そして、以後搭乗を拒否した。
その結果、隠岐の島に島流しにされた。
時代背景としては、この時期にはもう遣唐使はその役目を終えていた。
学ぶべき点は少なく、遭難や海賊・盗賊に遭遇する危険性が高かった。
失敗すると、財宝を失なうだけでなく、多数の有能な人材をも失なうことになる。
また、唐の朝貢・冊封による支配体制に組み込まれるのを国辱として嫌う向きもあった。
彼を残して出発した遣唐使の航海は難航を極め、この回の遣唐使(838年)が実質的に最後となった。
(歌の解釈)
わたの原は、大海原。
八十島は、たくさんの島々。
もともと自分は遣唐使には反対だったんだが、それでも2度もチャレンジしたんだ。
そして2度とも遭難しかけたんだ。
何とかぎりぎりのところで、2度とも戻って来れたんだよ。
当たり前だとは思ってほしくない。
それともあのとき、遭難していれば良かったのか?
遭難してたら満足するのか??
おまけにあんな理不尽な上司押し付けられて。
上手くいくわけないだろ。
そもそも、自分は最初から拒否したわけじゃないんだ。
やるべきことはやったんだよ。
それなのに流罪にされてしまった。
理不尽だよ、まったくもう。
いいか、このように都の人に伝えてくれ。
これでは遣唐使は、まるで漁師の釣り船ではないか。
こんなハイリスクローリターンの仕事なんて、国策としてやるべき仕事ではないよ。
こう憤慨しているんですね、彼は。
名前が公職の肩書きで書かれているのは、個人的な理由ではなく、これは政府高官としての意見であると強調したいためですね。
これらの歌の趣旨は、私には、このように感じましたが。
読者の皆さんは、どうだったでしょうか?
小倉百人一首 第5番、第8番
今回は第5番と第8番です。
私なりの解釈を、下記に述べます。
なお、ねずさんの解釈はこちらです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2152.html (4~6番歌)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2156.html (7~9番歌)
第5番
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫(男)
(人物および時代背景)
猿丸は、いわばペンネームである。
実名も生没年も不詳である。
同じペンネームを使う人物は一人だけではなく、時代を超えて複数いたのかもしれない。
太夫は公職にある人間であることを示している。
今風に言えば、匿名の政府高官筋とでも言えようか。
こういう匿名の人も、百人の中に選ばれていることに留意。
作者が匿名ゆえ、時代そのものが分からない。
したがって、時代背景は、文面より想像するしかない。
(歌の解釈)
奥山の奥は、天皇や公家のお住まいだろう。
紅葉は、お住まいにある、赤く染まった柱など煌びやかな象徴。
辰砂の赤い塗料は、神社の鳥居などでよく見かけます。
鹿は武士。
その鋭い角は、武士の象徴である刀を連想させる。
秋が深まると、鹿は交尾の時期を迎える。
オスはメスを求め鳴き、メスを巡って争う。
自分の遺伝子を残したいのだ。
おそらくこの武士は、台頭してきた平氏であろう。
本来は、天皇や公家の家来である。
秋は勢力が衰えてきた様を指す。
武士とは対照的に、朝廷の権威や権力は、日に日に落ちている。
本来は下級役人に過ぎなかった武士たちが、天皇や公家の住居にずかずかと乗り込むようになってきた。
そして、天皇や公家の子女を巡って、互いに言い争い合っている。
遠戚関係をもちたいのだ。
下品だ。
そして、なんと身の程知らずの連中なのだろうか。
とはいうものの、武士の台頭により、日に日に、朝廷の権力が落ちている事実がある。
そんな武士たちの声を聞くのは、まことに嘆かわしいなあ。
こういった趣旨ではなかろうか。
作者が匿名の政府高官なのは、こういう理由があるからである。
大っぴらに口外するのは、憚(はばから)られたのであろう。
なお、我が国には、このような自浄作用をもつ内部告発を受け入れる土壌があることも、併せて示している。
なおこの『鹿』とその振る舞いは、下記の歌とも共通するのだろう。
第8番
わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
喜撰法師(男)
(人物および時代背景)
喜撰法師なる人物は平安時代に実在したそうだが、その詳細は不明であり、ほとんど匿名に近い存在であったとも言えよう。
第5番目の歌と同様に、当時は大っぴらには言えないような状況だったのだろう。
(歌の解釈)
鹿は、秋の季語。
この秋も同様に、朝廷の権威や権力の低下している様を示す。
うぢは氏、宇治、そして蛆。
喜撰法師の住む都の南東(宇治)に、多くの武士たちが住むようになってきた。
新たに氏が与えられた新興勢力である。
どこからか湧いてきた蛆虫のように、山のようにたくさんいる。
そして、朝廷権力の低下とは対照的に、権力の中心へ台頭してきた。
平穏な日々を過ごしていたんだがなあ。
これらの歌の趣旨は、私には、このように感じましたが。
読者の皆さんは、どうだったでしょうか?
小倉百人一首 第2番
百人一首。
その中でも有名なのは、小倉(おぐら)百人一首。
藤原定家が編纂した和歌集です。
でも、不思議な名称ですね。
いったん刷り込まれると、違和感を感じなくなってしまいますが。
化学の最初の授業で習った原子の構造。
これに相通じるものがあります。
『百首』あるのに、百人一首。
単なる優れた歌の百首ではないのです。
つまり、歌そのものよりも、選ばれた『百人』の方に重きがあるということですね。
優れた人物を百人選び、その中からその人物の功績や人柄を表す優れた歌を選んでいます。
人物の選考基準には、我が国のかたちや成り立ちが深く関わっています。
したがって、歌単独、つまり、詠み人を省いてしまうと、歌がもつ意味を成さない、単なる文字列に過ぎなくなってしまう。
個人名の人、公職にある人のほか、いわゆるペンネームを使った匿名の人もいます。
これにも大きな意味があり、省いてしまうと歌のもつ意味がなくなってしまうんですね。
なお公職位の場合、死後は、生前の呼び名のうちで最高位を用いるのが慣例。
たとえば、首相経験者は引退した後には、元首相と呼ばれますね。
その他の大臣や職務を経験していたり、あるいは現在は全く別の職に就いていても、必ず元首相と呼ばれる。
この点も留意が必要です。
さて、この百人一首。
解釈には、思いのほか深いものがあるんですね。
ねずさんのブログを読んでいて感心させられました。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2149.html (1~3番歌)
と同時に、日本人に生まれたことを誇りに感じ、感謝の念で一杯になりました。
そこで私も考えてみることにしました。
その結果、ねずさんの解釈はたいへん素晴らしいのですが、部分的には私なりの解釈と異なる点がありました。
そういった歌について、私なりに解説していきたいと思います。
まずは、第2番から。
第2番
春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山
持統天皇(女)
(人物および時代背景)
持統天皇は第41代の女性天皇。
第38代天智天皇の娘であり、第40代天武天皇の后でもある。
第39代弘文天皇は、異母弟に当たる。
(注:ただし弘文天皇が即位していたと認められたのは、明治になってから)
壬申の乱(672年)の14年前に、天武天皇の皇后になっている。
天智天皇の死後、天智系と天武系の間で後継を巡り、壬申の乱が起こっている。
この狭間で、彼女の心は揺れ動いたものと思われる。
壬申の乱は、天智系の弘文天皇を破り、天武天皇が勝利した。
天武天皇は、我が国に律令制を確立した人物である。
氏姓制度を再編、国家神道、国家仏教を推進。
『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に完成した事業である。
天智天皇が国家の外枠を作ったのに対し、天武天皇は内の枠組みを作ったとも言えよう。
(ウィキペディアより、赤字は女性天皇)

(歌の解釈)
春は天武天皇が勝ち訪れた平和な時代。
夏はその治世が軌道に乗ったことを示しているものと思われる。
戦いが終わってから、もう既に一定の時間が経った。
衣は常に身にまとうもの。
つまり、自分の身内や、その側近を示しているものと思われる。
衣を干すという動作は、洗濯をするということ。
捨て去るのではない。
すなわち、衣についた汚れを落とし水に流し乾かして、再び身に着けられるようにするということ。
白妙とは、白紙を指すのだろう。
つまり、過去の争いでできたしこりを白紙に戻すということ。
仲直りだ。
実は、彼女には異母ではあるが、兄弟(天智天皇の子女)が多い。
彼らもまた自分の身内なのだ。
日本で節分にする豆撒きは歴史が古いが、掛け声でも分かるとおり、たとえ鬼であろうとも、追い払うだけである。
捕まえて殺したり、閉じ込めたりはしない。
これが大陸や半島だったならば、民族や一族郎党の皆殺しが行われる。
西洋だったらならば、捕まえられて生涯監禁される。
同様に日本の将棋も歴史が古いが、ルールでは、相手方の駒であっても、いったん取ってしまえば自分の味方として生かすことがができる。
他の国の将棋に類したゲームでは、こういうことはありえない。
日本は古来より、こういう国なのである。
殺戮はせず、生かすのである。
そして、和をもって良しとし、対立を好まない。
性善説が成り立つ稀有な国なのである。
だから彼女が衣を干すという言葉の真意は、敵方だった天智系の兄弟たちを許し、彼らの名誉を復権し、和の精神のもと、再び挙国一致の体制を目指したい。
そろそろそういう時期である。
そういう願いではなかろうか。
天の香具山は都(飛鳥浄御原宮)のそばにある山で、夫である天武天皇を指す。
最後に、「ねえ、これでいいでしょ?」と、夫である天武天皇に問いかけている。
皇統図を見て分かるとおり、この時期天武系の天皇に対し、天智系が后となり皇統が維持されている。
車の両輪、あるいは二人三脚だとも言えようか。
天武・持統両天皇の息子:草壁皇子の后として、のちに元明天皇となる天智系の姫を迎えたい。
そうすれば、すべてが丸く収まる。
なお、二人が結婚したのは、壬申の乱の7年後の679年頃だと言われている。(ウィキペディアより)
この歌の趣旨は、私には、このように感じましたが。
読者の皆さんは、どうだったでしょうか?
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