自由や人権の存在意義

 
先日の記事で、人間が「抽出」されていることを書いた。
化学分析実験の1つの操作に似ている。

お米のとぎ汁に例えたのだが、もっと分かり易い例があった。
お茶である。

人間は、お茶の葉である。

では、この茶葉を見てみよう。
当たり前だが、1つ1つのかけらは小さくちぎられている。

何故だろうか?
大きな塊だと、お茶を抽出しにくいからである。
粉の砂糖と粒の砂糖で、溶けやすさを比較すれば、どちらが溶けやすいか分かるだろう。

お茶の場合はありえないが、仮に太い茎や大きな実からお茶の成分が採れるとしても、同じように小さなかけらにしてから抽出するだろう。
コーヒー豆を挽くのと同じだ。

こういった前処理は、化学の世界では常識なのである。
前もって、できるだけ成分が溶けやすくなるように、粒子をある程度小さくしておかなくてはならない。

化学の専門家ではなくても、身近な例を出すとイメージがし易いだろう。



さて、我々人間は、この「茶葉」である。
塊が大きいと、お茶の成分、つまり「人民の財産」が抽出しにくい。
だからお茶を抽出し飲み干す側からみれば、茶葉は、できるだけ細かくしておかなければならない。

塊があると、うまく抽出できないのである。
この小さくする方法が、実は民主主義であり、基本的人権の尊重や、様々な自由や平等である。

集団よりも、個の確立を優先させるのである。
集団から分断するのである。

封建社会では、貴族、王族は巨額の富を得たとしても、100%にはほど遠い。
競合あるいは対立する組織(江戸時代なら各藩)ができてくるし、権力の横暴が表に出てくるから、人民の反発も激しい。

徳川家がもっていた資産など、全体からすれば、大したものではなかった。
おまけにその大半は、部下の俸禄に変わっていた。

民主主義や基本的人権の尊重を掲げると、賛成する者はいても反対する者はいまい。
冷戦下で西側に亡命する者はいても、東側に亡命する者はほとんどいなかった。

自由で抑圧されない生活を送ることは、人類共通の願いなのである。
だが、多くの人が、うまく利用されていることに、気づかないだけである。

明治維新(封建社会の解体⇒民主主義)、戦後行われた財閥の解体や、農地改革(大地主から小作農への土地の分配)、配偶者や兄弟による財産の平等な相続は、つまるところ、人民から財産を搾取するためには、都合の良い方法なのである。

時間が経てば、支配者層に回収される運命なのである。
小さくすると関係者が増えて、一見回収が難しくなりそうに思えるが、現実は逆だ。
しかも、誰にも気付かれることなくことは進む。

韓国の例を見て分かるように、直接関わると、後々まで反発は続くものである。
日本への怨念には呆れるほどのパワーを感じるが、現在韓国も含め、実際に世界を支配しているのは、湯田屋である。
愚かなことに、それには誰も気付かない。


核家族とか、単身赴任とかも、構図は同じである。
できるだけ小さくしておくと、あとあとで抽出しやすくなる。

さらには、男女雇用機会の平等とかも、同じなのである。
不平等から解放されたと女性は喜んだかもしれないが、その後どうなったかは現実を見れば分かるだろう。

何のことはない、男と同様に、女も搾取の対象になったのである。
家族単位から、男女それぞれに変わった。

現代では、配偶者を見つけることさえ、ハードルが高くなり、晩婚化、非婚化が進んでいる。
さらには劣子化や、さまざまな社会の崩壊現象は、その延長線上にある。



お茶ならば、3回も出せば、出がらしになる。
お茶の旨み成分は、もう出てこなくなる。
同じように、世界大戦を3回もすれば、人民の富はほとんど回収できる。

お茶の場合の湯、つまりこの抽出溶媒に相当するのが、紙幣である。
財産の溶解性が高く、しかも原価がかからない。

おまけに、揮発性が高い。
つまりいつでも、チャラ(紙切れ)にできる。

抽出溶媒は、使い終わったら捨てるものなのである。

お金(紙幣)とは、お茶でいえば、ただの湯(水)に過ぎない。
本来の有効成分ではないのである。

経済が発展すると、何故だか、お茶の有効成分よりも水の方に価値があるように感じてくる。
長い期間、この生活にどっぷりと浸かっていると、誰もがそう錯覚してくる。

だが、本来はそうではないことを自覚しておくべきだろう。



お茶は、だいたい3回も出すと、もう味も色も匂いも付かなくなる。
出がらしになる。

さて、この出がらしになった茶葉。
用が済んだら捨てるだけである。
もう利用価値はない。

我々大多数の人間も、用がなくなったら捨てられる運命にある。
生き残ったとしても、もうそこには、自由も平等も、民主主義も、基本的人権の尊重もないだろう。

何故ならば、これら自身は、本来の目的ではないからだ。
単なる手段に過ぎない。

(支配層が)人民から財産を収奪し終えたら、もう存在意義はないのである。

こういった一見理想の社会システムとは、一部の極悪人が考え出した、財産収奪の手段に過ぎない。
いわば、悪人の考えた見かけの「善行」に過ぎない。
隠された真の狙いに気付くべきであろう。

要するに、我々人間も、家畜なのである。
ブタやウシやニワトリと同じように、目的があって飼われているに過ぎない。

「何て人間は優しいのだろう」と、これらの家畜達は思っているに違いない。
だが家畜達が気付かないように、我々人間も気付かないだけなのである。



さて、このように考えていくと、今後の世の中の動きも理解できるだろう。
デフォルト、内戦、FEMA、世界大戦から、世界統一政府を目指した流れになるのだろう。

もちろんそのときには、一般人民には人権はなく、完全なる奴隷扱いになるだろう。

 
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