幸せを求めるほど、満足からは遠ざかる

 
もういつ見たのかも、思い出せないのですが。
20年か、30年か、そのくらい前になります。

テレビでゲームをやっていたのです。
見ていたというよりも、テレビをつけていたに過ぎません。

やっていたのは、くだらないゲーム。
制限時間内に、新聞紙を丸めて玉にして、チームでその合計数を競うのです。

できるだけ固く潰さねばなりません。
そして、できるだけたくさん作るのです。

Aチームは30個、Bチームは40個、Cチームは50個ほど作ります。
まぁ、正確な数は覚えてはいませんが。

たくさん仕上がった、固い新聞紙の玉。
審判が数えます。

Cチームは、勝利を確信します。
ところが…。

ところが、実はここからが本番なのです。

この固く仕上がった玉。
これらを元のように、きれいに伸ばさなければならないのです。

1つ1つきれいに伸ばす。
そして、早く全部がなくなったチームが、勝ちなのです。

つまり、最初の努力は、逆に作用するというわけです。
最初の結果が良かった方が、最終的には悪い成績につながるのです。



これは、単なるゲームの話ですが。
人間の人生も、こんなものではないでしょうか?

地位だの、名誉だの、学歴だの、権力、経済力だの。
男性に多いですね。

あるいは、端麗な容姿だの、ブランド商品だの。
女性なら、こんなものを欲しがりますね。

もっている人が勝ちで、もっていない人は負け。
そんな風潮がありますね。

別に、努力を否定するつもりはありませんが。
その努力は、本当に必要なのか、よく考えてみる必要があると思うのです。

おまけに、どんなにたくさんもっていても、それは現世で生きている限りなのです。
あの世にまではもって行けません。
まぁ、当たり前ですが。



さて、私が重要なポイントだと思っているのは、ものそのものではなく、ものを欲しがる心です。
何かものを欲しがる心。

誰しもがみんな、幸せになりたいと思っているのです。
こういったものを手に入れると、幸せになる。

そう思っているのです。
だからこそ、必死で努力するわけですね。

でも、この努力。
先ほどのゲームに似ていませんか?
よく考えてみましょう。

もっている人は、これらを手に入れて、本当に幸せになっているでしょうか?

もっていない人は、だからといって、本当に不幸せでしょうか?
これらがあれば、人生の問題すべてが解決するのでしょうか?

そんなことはないでしょう。
それどころか、ほとんど相関関係はないのではないでしょうか?

幸せを求めるほど、満足からは遠ざかるものなのです。
幸せを求める行為とは、不満足を意識する行為でもある訳ですね。

もっている人が勝ちで、もっていない人は負け。
そう思っているのは、そういう人達の輪の中にいるから、感じるだけのことですね。

たとえば、子供の頃欲しかったおもちゃ。
もっている人はヒーローで、もっていない人はさびしい思いをしたものです。

でも、大人になった今、それらが欲しいでしょうか?

大半の人は、どうでもいいのではないでしょうか?
まぁ、中には変わり者もいるでしょうが。

もっている人が勝ちで、もっていない人は負け。
評価の基準を、周囲の他人に求めると、こういう心理に陥りがちです。

もし誰もいない無人島に流れついたとして、そこで地位や名誉があっても、何の役にも立たないですね。
ブランド物のバッグも、何の役にも立ちません。

誉めてくれる人がいないと、成り立ちえないものなのです。
多くの人が求めている幸せとは、こういうものではないでしょうか?

それに対して、満足する心。
これは、いつも自分の中にあります。
評価の基準は、自分です。

たとえ無人島に流れ着いたとしても、そこで満足できる生活ができるのならば、その人は「本当の」幸せをもっているわけですね。



(次回へ続く)

 
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Re: No title

○○さん、こんばんは。

次回は、世界の崩壊や、人間のカルマに絡めて、書くつもりです。
記憶や量子化学が主題です。

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