山中先生、ノーベル賞受賞

 
山中先生、ノーベル賞受賞おめでとうございます。
日本人の底力を感じる今回の受賞でした。

ところで、彼の人生、順風満帆ではなかったそうです。
華々しい成功の陰には、こんなエピソードもあったそうです。

人柄に親しみを覚えるのは、こんなところにあるのでしょうか。

不器用な研修医、怒鳴られ…挫折が生んだ挑戦
2012年10月9日(火)11時19分配信 読売新聞

 山中伸弥さん(50)は、臨床医を志しながら挫折するなど、順風満帆な研究者生活を送ってきたわけではなかった。

 そうした苦労の末にノーベル賞の受賞が決まった山中さんに、生まれ育った大阪や学生時代を過ごした神戸、京都などの同級生や薫陶を受けた弟子の若手研究者から祝福や称賛の声が上がった。

 山中さんは、中学、高校で柔道、大学でもラグビーをし、骨折を10回以上経験している。けがが絶えなかったことから神戸大医学部に在学中に「スポーツ外傷の専門医になると決心した」という。

 1987年に同大学を卒業した山中さんは、大阪市大の医局を経て、国立大阪病院整形外科(現国立病院機構大阪医療センター)で研修医となった。しかし、不器用な上、点滴に失敗するなど指導医から「お前は邪魔、ジャマナカや」と呼ばれ、毎日、毎日怒鳴られていたという。

 講演会などで当時の話をする山中さんは、ユーモアを挟みながらも苦しい胸の内を明かしている。「手術が下手で、他の人なら20~30分でやれる手術に2時間もかかった。研修も修行という感じで、地獄だった」と振り返る。

 理想と現実の大きな隔たりにも悩んだ。「整形外科は、手術をして元気になって帰っていくという明るいイメージがあった」が、脊髄損傷など深刻な患者を治せない現実を目の当たりにした。重症患者を救うには「基礎研究をするしかない」と思うようになり、臨床医を諦め、大阪市大大学院の薬理学教室の門をたたいた。これが1度目の挫折だった。

 薬理学教室で研究を進め、その後、93年に米国の研究所へ留学した。帰国後、大阪市大で、当時米国で盛んだったマウスのES細胞(胚性幹細胞)の研究を続けようとしたが、研究環境の違いや周囲の無理解から思ったように成果が上がらなかった。気持ちも沈み、2度目の挫折の日々だった。

 一時は臨床医に戻ることも考えたが、最後にもう一度、研究に挑戦してみようと、公募中だった奈良先端科学技術大学院大(奈良先端大)の助教授に応募。99年に採用され、iPS細胞研究の礎を築いた。



 
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