中国船救助/中国が感謝しない理由

 
沖縄本島沖で火災を起こした大型貨物船。
海上保安庁が、中国人乗組員64人全員を救助した。

だが、中国政府から、感謝の言葉はなかった。

中国外務省、日本側に謝意示さず 海保の中国人救助で
2012.10.23 08:19  産経ニュース

大型貨物船「MING YANG」
火災が発生し、煙を上げる大型貨物船「MING YANG」=21日、沖縄本島南東沖約150キロ(第11管区海上保安本部提供)

 海上保安庁が沖縄本島沖で火災を起こした大型貨物船の中国人乗組員64人全員を救助したことについて、中国外務省の洪磊副報道局長は22日の定例記者会見で「日本側と調整し、船員の救助に向けた有効な措置を取った」と強調した。日本側に謝意は示さなかった。(共同)



まぁ、ああいう国なんで。
昨日も書いた通り、精神レベルはサルの国。

まぁ、昔やったヘマを意識しているのでしょうな。

その昔、中国船が尖閣諸島で座礁した。
彼らを日本人が助けた。
それに対し、当時の中国政府が感謝状を贈った。

そこには、「日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島」の文字。
尖閣列島が日本の領土であることを認める内容です。

中華民国 魚釣島 感謝状 2

そもそも彼らは、沖縄も中国の領土だと思っている。
まぁ、勝手な言い分ですが。

将来取り戻そうと考えている。

今回の海域は、沖縄本島南東沖約150キロ。
つまり東側なので、日中中間線側ではなく、明らかに日本側。

助けてくれてありがとうと言ったら、沖縄が日本の領土だと認めることになる。

絶対にそれは認められない。
日本の主権が及んでいる場所だと認めたくない。

そう考えているのでしょう。

まぁ、何ともややこしい連中ですな。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid885.html

「諸君!」2006年2月号 掲載
永久保存版 歴史講座
【もし中国にああ言われたら——こう言い返せ】
「尖閣、そして沖縄までは中国の領土」と言われたら
フォトジャーナリスト・山本皓一

〈前略〉

 魚釣島に日本人が住み着くようになった経緯はこうだ。1884年、冒険心に富んだ福岡出身の商人・古賀辰四郎は、人跡未踏の尖閣諸島に探検隊を送り込んで調査を行った。「魚釣島」と称されるとおり、周辺海域の魚影は濃く、とくに鰹の大きな群れが島の近場を回遊し、人間に警戒心を持たないアホウドリは簡単に獲れた。これは将来有望だと判断し、古賀は魚釣島に移住開拓を図るのである。

 古賀が開拓に着手するまで、尖閣諸島に関してはどの国も詳しいことを知らなかった。

 ただ、古賀らが移住する13年前の1871年に「牡丹社事件」が起こっている。この事件は、宮古島の貢納船(納税品を運ぶ船)が暴風雨で遭難して台湾南部に漂着したのだが、「牡丹社」という原住民の村落に助けを請うたところ、救助されるどころか逆に乗組員66人のうち54人が惨殺されてしまった事件である。

 日本政府は中国(清)に対して謝罪と賠償を求めたが、中国政府は「台湾は化外の民」であり「教化の及ばぬ地」であるからと拒否した。当時の中国政府は、台湾でさえ「(中国の)支配が及ばぬ地」と宣言していたのである。ちなみにこの事件は1874年に日本帝国初の海外出兵「征台の役」に発展する。

 古賀辰四郎にとって尖閣諸島は「絶海の無人島」であり、100年以上も後になって日中間の領有問題になるなどとは夢にも思わなかったであろう。

 魚釣島で古賀の事業は成功した。豊富な鰹などの海産物は缶詰や干物に加工され、また無尽蔵とも思えるアホウドリなど海鳥の羽毛採取は莫大な利益をあげた。当時、義和団事件(1900年)や日清・日露戦争が勃発したが、寒冷地が戦場となったため、帝国陸軍にとって寒中行動の克服は焦眉の急であった。古賀が生産した缶詰や羽毛は軍隊食や防寒衣類の必需品となり、巨額の特需が発生した。いわば「国策事業」として、古賀の会社も発展を遂げたのである。

 尖閣諸島開拓の父ともいえる古賀辰四郎は、シベリア出兵が開始された1918年に62歳の生涯を終えた。以後、太平洋戦争で沖縄近海の制海権が奪われ、油や食料の輸送が困難となって島を引き払う終戦の直前頃まで、嫡男の古賀善次が事業を引き継いで発展させた。

 父の後を襲って善次が「島主」になった翌年の1919年(大正8年)、ひとつの事件が起こった。

 中国・福建省から船出した中国の漁船・金合丸が暴風雨に遭遇し、魚釣島に漂着座礁したのである。この船には福州(今の福建省)の船主兼船長・郭合順以下31名が乗り組んでいたが、尖閣周辺の波浪は嵐の余韻で渦を巻き、激しい潮流に翻弄され、座礁したまま身動きがとれなくなって、魚釣島の島民に助けを求めた。

 善次の陣頭指揮のもと、金合丸の乗組員全員は無事救出された。手厚い保護を受けた遭難漁民たちは、やがて石垣島に送られ、半月余の後に台湾経由で故郷の福建省に無事帰還することができたのである。

 その後、魚釣島における善意の海難救出に尽力した古賀善次ら島民7名に対し、中国(中華民国)在長崎領事の馮冕より感謝状が届いた。その感謝状には、海難発生場所として「日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島」と記されているのだ。

 感謝状の原文は中国語だが大意は以下の通りである。

 「感謝状
 中華民国八年冬、福建省恵安県の漁民である郭合順ら三十一人が嵐(原文では風)に遭って遭難し、漂流して、日本帝国沖縄縣八重山郡尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別名)に漂着。日本帝国八重山郡石垣村雇用(後に助役)・玉代勢孫伴[たまよせそんばん]君は親切に救護し、故国に生還させてくれたこと、まことに義を見てためらわないものであり、深く感服し、ここにこの書状の贈呈をもって感謝の気持ちを表すこととする。

  中華民国駐長崎領事馮冕 印
  中華民国九年五月二十日 公印 」
 *ゴシックおよび( )内は筆者

 これを一読すれば、中国政府が尖閣諸島を「日本の領土」だと認めていることは明らかである。

 感謝状は表記の玉代勢氏のほか、石垣村長(当時)の豊川善佐氏、古賀善次氏、そして通訳を務めた松葉ロブナストさんら計7人に贈られた。ここに取り上げたのは、私蔵されていた感謝状を玉代勢氏が1996年1月に石垣市に寄贈したもので、現存するのはこれ1枚だけである。

〈以下略〉



 
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