二日市保養所での記録

 
日本は韓国がいなくなっても、一向に構いません。
困ることは何一つない。

せっかくあちらから会いたくないと言っているのだから、このまま放っておけばよいでしょう。

7月に韓国がデフォルトする噂があります。
日韓のスワップも期限が切れる(7月3日予定)からです。

ちょうどその頃、宗主国:中国のデフォルトも起こるとか。
まぁ、噂ですが。

ちょっと乱暴ですが。

韓国との付き合い方は、北朝鮮に学べ!!
お互いに宣戦布告が何回出てきても、一向に戦争にはなりません。

基地外のブラフなのです。

韓国外相 日韓首脳会談容易でない
5月27日 17時26分 NHK


韓国のユン・ビョンセ外相が就任後初めて記者会見し、いわゆる従軍慰安婦や歴史認識を巡る問題を念頭に、「雰囲気が改善されなければ、日本と首脳や閣僚級の会談を実施するのは容易ではない」と述べ、これらの問題で前向きな対応を取るよう日本側に求めました。

ユン・ビョンセ外相は27日午後、韓国外務省で就任後初めての記者会見を行いました。

ユン外相はまず、北京を先週訪問した北朝鮮のキム・ジョンウン第1書記の特使が中国の最高指導部との会談で、核問題を巡る6か国協議などの対話に前向きな姿勢を示したことに触れ、「対話のための対話はいけない。北朝鮮は非核化に関する義務を果たし、約束を守るべきだ」と述べ、北朝鮮の出方を慎重に見極めていく姿勢を示しました。

一方、日韓関係についてユン外相は、いわゆる従軍慰安婦や歴史認識を巡る問題を念頭に、「最近、日本側から歴史に逆行する言動が相次ぎ、関係を強化しようという政府の方針に冷や水を浴びせている」と指摘したうえで、「雰囲気が改善されなければ、首脳や閣僚級の会談を実施するのは容易ではない」と述べて、これらの問題で前向きな対応を取るよう日本側に求めました。

また、従軍慰安婦問題を巡る日本維新の会の橋下共同代表の一連の発言について、「国際社会の常識から外れた恥ずべきものだと多くの人が考えている。国連総会やアメリカ議会で一度してみたら、どんな反応があるだろうか」と述べ、強く非難しました。




本当の歴史はこちらです。
終戦後の惨状は、涙なしには語れませんね。

特に女性の悲劇は。
度重なる強姦の被害に遭い、性病に罹ったり加害者の子を宿したり。

彼女たちへの処置をしたのが、二日市保養所です。
以下は、その記録です。

二日市保養所 (ウィキペディアより)

患者の治療
麻酔薬が不足していたため、麻酔無しの堕胎手術が行われ、死者も少なからず出た。当時の医師の証言[要出典]によると、閉鎖まで約500人に堕胎手術を施したという。梅毒や淋病などの性病患者も約500人いたという。

脚注
1.^ 二日市保養所の報告(1946年6月10日)によると、2ヶ月間に治療を行った47人を強姦し、不法妊娠させた男の国籍は以下の通りである。 朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人



強姦の加害者は、圧倒的に朝鮮人が多いですね。
これが歴史の真実です。

またここにはありませんが、中国残留孤児はいても、朝鮮残留孤児は一人もいない。
この事実も知っておくべきです。

自分たちの残虐性から目を逸らせるために、被害者を装い、過度に被害者を攻撃する。
これは、特亜、反日活動家や同和でよく見られる構図です。

彼らとは関わってはならない。


http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2455.html
闇に葬られる終戦後の日本女性の悲劇・・・二日市保養所など


筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館の
はずれに小さな水子供養祠がある。


筑紫野市湯町の二日市温泉の済生会病院旧館の水子供養祠
 

1946年、満州からの日本人民間人の引き揚げが
開始されてから、博多港に上陸した日本人引き揚げ者は
約1年半で139万人に上った。

ソ連兵や北朝鮮の保安隊兵士に強姦されて、
妊娠させられた多くの女性が存在した。
上陸寸前、絶望して博多湾に身投げした女性も
多かったそうだ。

妊娠した女性の中絶手術が厚生省博多引揚援護局
二日市保養所で行われた。

  

物資不足から、手術は麻酔を使わないで行われた。
「白い肌、赤い髪、長い指。
 一目でソ連兵の子供とわかる水子もいた」
そうだ。

★引揚援護活動
 引揚げ港・博多
 http://hakatakou-hikiage.city.fukuoka.lg.jp/summary/engo.html
 上陸した引き揚げ者の中には援助や治療が必要な
伝染病患者や女性、孤児たちが含まれていました。
福岡での援護活動は京城(現ソウル)で始まりました。
「京城帝国大学」の教授や学生達は、
朝鮮半島北部からの引き揚げ者の窮状を見るに忍びず、
昭和20年10月京城で「罹災民救済病院」、
列車・船内で診療を行う「移動医療局」
(米軍政府公認 MRU?Medical Relief Union)
を設置しました。

翌年2月には博多・聖福寺に本部を置き、
3月に女性患者のための「二日市保養所」、
4月に「聖福病院」、8月に医療孤児施設「聖福寮」を
設立し、さまざまな援護活動を行いました。

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◎『高松宮日記 第八巻』
 中央公論社1997年12月発行
 編集委員:細川護貞・大井篤・豊田隈雄・阿川弘之・千早正隆・鳥巣建之助
 第175頁~第176頁
  

「北朝鮮に侵入せるソ連兵は、白昼、街道にて、
 通行中の婦女を犯す。
 汽車の通らぬため歩いてくる途中、1日数度強姦せらる。

 2人の娘を伴う老婦人は、かくして、上の娘は妊娠、
 下の娘は性病に罹る。

 元山か清津にては(ソ連軍に)慰安婦の提供を強いられ、
 (引き受け者の)人数不足せるを(補うものを)
 くじ引きにて決めたり、日本婦人の全部は強姦せらる。

 (慰安婦を)強要せられ自殺せるものも少なからず。」


◎『検証・シベリア抑留』
 ウィリアム・ニンモ著 加藤隆訳
 (時事通信社 1991年3月発行)
 第47頁

「要するに、満州・北朝鮮におけるソ連軍の日本人虐待は、
 口ではいい表せないほどひどいものだった。
 暴行と強奪は日常的だった。そして残虐な行為を犯した。

 ・・・とくに野獣のように乱暴なやり方で女を奪い、
 抵抗するものは片っぱしから殺した。
 ソ連軍の兵士たちが日本の女にしたことは、
 いまでもぞっとするほど残虐なものだった」


◎『戦後引き上げの記録 新版』
 若槻 泰雄
 

◎二日市保養所
 終戦当時、朝鮮半島で
 強姦された日本人を保護
 http://ameblo.jp/campanera/entry-10255029198.html
・ヤン・ジュヒョン(76)
 釧路出身

父親は阿寒炭鉱で数百人の炭鉱夫をまとめる会社経営者。
乗馬に興じる余裕があった程裕福な暮らしをしたいた。
14歳の時釜山に引き揚げる。
釜山には不良者がたくさんいた。
一人では街に出てはいけないと言われていた。
街に出てみると、
男たちが大声を出し、女を抱いているのを見た。

海の方に連絡船の往来を見ると日本に帰りたいと思った。

戦後最大の引揚港だった博多港
着のみ着のままの大勢の日本人を乗せた船が連日港に接岸した。


・中田治子(80)
 朝鮮半島からの引き揚げ者

終戦直後の混乱期にはソ連兵や現地人(韓国人、朝鮮人)ら
による略奪、そして強姦が平然と繰り広げられていた。

中田さんの父親は年頃の中田治子さんのことを
案じて止まなかった。
当時18,9だったから坊主にして、
兄の服を着たり、男の子の格好をするように言われた。

そんなある日の夜、自宅に男たちが押し掛けます。
中田さんは隣の家に身を寄せ、静かに時を過ぎるのを
待ちました。
何か棒を持っていて入ったのか、
ガサガサ探している音が聞こえた。

「隠れていてよかった・・・
 あの時、(朝鮮人の男達)に見つかって
 (強姦されて)いたら・・・
 舌を噛み切って死のうと覚悟していました 。」



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★二日市保養所 
 「終戦後の日本女性の悲劇の史実」
 http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/2657208/

★伝え続けたい
 ~敗戦国日本女性の受けた悲劇
 http://blog.goo.ne.jp/ginga7788/e/9a7870d5531c5dd6abf15eea2a3d34e1


★知られざる歴史【39話】 
 終戦後の博多港と二日市保養所
 http://blogs.yahoo.co.jp/naomoe3/60282372.html
  
 http://www.amazon.co.jp/%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%98%9F%E3%81%AF%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%ABBIBLIO20%E4%B8%96%E7%B4%80-%E8%97%A4%E5%8E%9F-%E3%81%A6%E3%81%84/dp/4122040639/ref=cm_cr_pr_product_top

藤原ていは夫と満洲で離れ離れになりつつも
生後1ヶ月、3歳、6歳の子供3人を引き連れ
1年以上かけて満洲から日本に戻ってくる。
(次男は数学者の藤原正彦で
 ベストセラー「国家の品格」著す)
夫新田二郎は帰国後は藤原ていに全く頭があがらず
夫婦の間で「引揚の話」は禁句であったらしい。
その藤原てい親子4人も何度も死線を彷徨いつつ
博多港に引揚げてきたのであった。

昭和20年8月の日本敗戦により福岡市の博多港は
引揚港として意外な脚光を浴びる事となる。
当時海外(旧日本領や満洲)には700万人を超える
日本人の軍人民間人が
武器や資産、名誉を奪取されたまま
日本への帰国を待ち侘びていた。


米、中、英領地での引揚者は比較的順調に1年内外で
外地から日本に引揚げる事ができたが
満洲、北朝鮮地区所謂ソ連が占領していた地域では
朝鮮半島北部を通過できず
ソ連人や朝鮮人に様々に虐げられ、非常な困難を極めて
本土帰還となった。

満洲内蒙古朝鮮北部では終戦から昭和22年頃までに
日本民間人だけで老若男女12万人以上がソ連軍などの
虐殺により非業の死を遂げているという。
満洲や樺太千島の日本軍守備将兵60万人が抑留され
6万人以上が還らぬ人となったのも周知の事実である。
(抑留による死亡者数は10万人を超えているとの話も聞く)


これらの数字は東京大空襲、沖縄戦での民間死者、
広島、長崎原爆の死者と同等か上まわる数字である。


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★桜の樹の下 
 ―語られなかった引揚の惨禍
 平尾弘子
 http://www.kanpusaiban.net/kanpu_news/no-50/hirao.htm
終戦の翌年、1946年の春、
日本に帰還していた京城(大韓民国の首都ソウル。
日本統治下、朝鮮総督府がおかれた)。
日赤の同期の看護師10名が、福岡市の近郊、
二日市へ集結した。
対馬に帰還していた当時、20歳の村石正子さんも
日赤の事務長から連絡を受け、用件も明確には伝えられないまま、
二日市に赴いた。そして、桜の蕾が芽吹き、満開となり、
やがて葉桜となる3月から5月までの3ヶ月間、
二日市保養所でその勤務にあたった。

二日市保養所は、引揚者の救済活動をしていた
在外同胞援護会救療部によって、戦時中の愛国婦人会保養所の
建物を利用し、1946年3月に開設された。
引揚の混乱の中で暴行を受け、妊娠した女性の中絶や性病の
治療等に約1年半にわたって携った。
(中略)

保養所の2階に部屋をあてがわれ、そこでの生活が始まった。
建物は老朽化した2階家で、1階の1室が、手術室として
使用された。
そこは以前、風呂場であったのか、床がタイル張りで
手術台が1台置かれていたという。
棚には脱脂綿やガーゼ等、最小限の医療用具しか
準備されていなかった。

大陸からの引揚港博多からトラックに乗せられ、
運ばれてくる女性たちの姿を見て、
村石さんは、事の次第を理解した。

異形の者…彼女たちの様相を現わす言葉は、他に見出せなかった。

一見したところ男女の区別すらつかず、短く刈った頭を
風呂敷で巻き、汚れ痩せ果ておなかだけ膨れた女性たちが、
次々と保養所に運ばれてきた。
引揚の途上での暴行を避けるため、女たちは一様に髪を短く
刈り込んでいたが、膨らんだおなかを見れば、
それもまったく無駄であったことがわかり、痛々しさは、
いや増すばかりだった。

戦争の周縁では、どの時代、どの地域であっても例外なく
必ず性暴力の被害が生じる。
この世で最も忌むべき戦争と戦時性暴力は、お互いが癒着し、
蛇のように絡まりあい、切っても切り離すことなどできない。

更にこのような状況下でも生身の女性の体は受胎し、
加害男性の子を宿してしまう。
人間という個体の生殖の営みが、これ程、哀しく
不条理なものであると感じられることはない。


凄絶な体験を経て、一種の精神的な虚脱状態にあったためか、
女性たちは概して無言のままだったという。
迎えた人々も掛ける言葉も見当たらなかった。
まず、「お風呂に入りましょうか。」と入浴をすすめ、
衣服の着替えを用意し、2~3日休養してもらう手順だった。
旧厚生省から食料だけは、豊富に支給されていた。

手術は、医薬品不足のため、無麻酔で行なわれた。
精神と肉体に凄まじい傷を負い、言葉を半ば喪失していた
女性たちは、激痛にも一様に黙々と耐えたという。



 
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コメント

No title

通りすがりですみません。

風化させてはならない悲劇ですね。


動画もありました
http://www.youtube.com/watch?v=cFiDzaxp-W8

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