18歳で日本籍警官に登校途中で拉致?の92歳最高齢台湾籍“元慰安婦”が訪日へ

 
また、自称従軍慰安婦が出てきました。
今度は、台湾からのようですが。

でも、年齢やら、送られたという場所やら、通っていた学校とやらで、矛盾が噴出していますね。
まぁ、毎度のことですが。(笑)

①:戦争の始まっていない時期に、警官に拉致され??
②:当時日本領ではなかったインドに送られ、慰安婦にされた??
③:高等女学校の1年生(現在の中学1年生に相当)だった【18歳】のとき??
  12or13歳なら分かりますが??

まぁ、これだけある矛盾点。

見方によっては、慰安婦はウソなんだと明言しているようにも思えます。
虚構だった証明にもなる訳で。



http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2529.html
18歳で日本籍警官に登校途中で拉致?の92歳最高齢台湾籍“元慰安婦”が訪日へ

92歳最高齢“元慰安婦”が訪日へ、
政治家の妄言に抗議、東京で6日から
「慰安婦」展開催―中国メディア

XINHUA.JP 7月5日(金)20時37分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130705-00000044-xinhua-cn
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130705-00000044-xinhua-cn
  

92歳最高齢“元慰安婦”が訪日へ、
政治家の妄言に抗議、東京で6日から
「慰安婦」展開催―中国メディア

東京都内の資料館で6日、台湾の「慰安婦」をテーマとした
特別展が開幕する。5日付で台海網が伝えた。

台湾籍の元“慰安婦”、鄭陳桃さん(92)
台湾婦女救援基金会の付き添いで来日し、
当時受けた被害の様子を語るという。鄭さんは
「昨今の日本の右翼政治家による
 慰安婦の史実を歪曲するでたらめな発言」
に対して、抗議したいとしている。

台湾籍の元慰安婦は現在8人が存命で、
鄭さんは最高齢にあたる。

18歳の時、
登校途中で日本籍の警察官に拉致
され、
インドに連れていかれて
従軍慰安婦にされた。
21人の女性が一緒だったが、
今でも存命なのは鄭さんだけだという。

特別展「台湾・『慰安婦』の証言 日本人にされた阿媽たち」は、
台湾婦女救援基金会と「女たちの戦争と平和資料館」の共催。

------------------------------------------

92歳-18歳ということは
1939年(昭和14年)なの???


*太平洋戦争の期間は
 「1941年12月7日
  (ハワイ現地時間。日本時間では12月8日)から
  大日本帝国政府が降伏文書に調印した
  1945年9月2日」とするのが一般的である


しかし、別のサイトには
http://www.jca.apc.org/taiwan-ianfu-support/ama_act/ama_story0.html 
 ”鄭陳桃さん(1922年生まれ)
 1942年にインド洋アンダマンへ連れていかれる
 アンダマンの海をみながらいつも泣いていた。
 普通の女の子だったのに・・・。 ”

またもや「数え年」マジックなのか?
これだと、20歳で連れて行かれたことになる。
20歳の時に登校途中???
台湾のサイトでの彼女の証言では
http://www.lihpao.com/?action-viewnews-itemid-78799
我原本是台南女中的學生,上學還不到一個月
台南の女子中学生で入学して1か月経っていない」頃に
拉致されたと証言
しています。
(年齢は記載されていません)

1922年生まれの鄭陳桃さんが
18歳の時に登校途中で
”日本籍の警察官に拉致され、
 インドに連れていかれ”たとしても
そこは、イギリス領なので
英印軍しか存在しない・・・


どういうこっちゃ!

★日本統治時代の台湾の高等教育機関
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E6%A9%9F%E9%96%A2

------------------------------------------

「女中的學生」というから中学校だとして
★国民中学
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E4%B8%AD%E5%AD%A6
統一した教育年限と教材、台湾学生への教育の機会を
増やすなどした。加えて、「台湾中学校規則」と
「台湾公立高等女学校規則」により台湾の中学校は
大幅に増加した。
1941年には台湾総督府は第三次台湾教育令を発布し、
小学校と中学校を統一した国民学校とした。

~引用ここまで~

★旧制中等教育学校の一覧
 (日本統治時代の台湾)
------------------------------------------

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E4%B8%AD%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%8F%B0%E6%B9%BE)

台南州には
旧制中学は公立3校、私立1校
高等女学校は公立4校、私立1校


------------------------------------------

「高等女学校」の事だとして

★旧台湾総督府台南高等女学校校舎
 (現 国立台南女子高級中学)
 http://www.ryuumu.co.jp/~waac-41/shasin-t-nihon/tainan-jyocyuu.htm
 
旧台湾総督府台南高等女学校の校舎です。
この学校は1916年に総督府高等女学校の分教室
としてスタートし、1917年に高等女学校として
独立し、台湾総督府台南高等女学校となりました。
当時は勿論日本人の子弟のみが在学しておりました。
1920年代になると、地方制度改革の影響により、
台南州立台南第一高等女学校となります。
ちなみに第二高等女学校の方は台湾人子弟が入学する
学校でした。 

★高等女学校
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%A5%B3%E5%AD%A6%E6%A0%A1
高等女学校1年は、12歳から
高等女学校5年は、修了時17歳まで・・・

*1941年(昭和16年)4月1日
 - 国民学校令の施行により、高等女学校の
 入学資格が国民学校初等科修了程度(12歳以上)となる。

~引用ここまで~

------------------------------------------

>18歳の時、 登校途中
鄭陳桃さんは、18歳の時に
一体、台南のどこの学校に通ったのでしょうか?


支援者もメディアも、
いい加減に、明解にして欲しいものです。


------------------------------------------

★アンダマン・ニコバル諸島
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E8%AB%B8%E5%B3%B6
アンダマン・ニコバル諸島は、18世紀にマラータ同盟に
よって占領された後、イギリスによって支配された。
イギリスはここを流刑地としており、
インド及び周辺国で反イギリス的な活動を行った
政治犯などを送り込んでいた。
(中略)
原住民たちはイギリスの統治のなかでも狩猟生活など
により自給自足の生活を営んでいた。
それに対し、イギリスが送り込んだ流刑民及びその子孫は
土木工事や木材生産に従事し、代償として配給される
食糧等の物資を頼りに生活を送っていた。
これは従属性をコントロールする意図もあったと考えられ、
農業はココナツの栽培など粗放的な限られたもので、
米や麦などの主要穀物が生産されることは無かった。

第二次世界大戦に入ると日本軍がポートブレアに上陸
(1942年3月23日)。
日本はアンダマン・ニコバル諸島をスバス・チャンドラ
・ボースによる自由インド仮政府の統治下に置いた。
(中略)
一方、イギリスは東南アジア方面への反攻への足がかりと
するため諸島の奪還を企画、海上封鎖を行い
物資の補給を途絶させた。
農業生産が行われていない島内では餓死者を出す事態となり、
戦後、数十名の日本軍関係者が責任を負わされ、
BC級戦犯としてシンガポールにて処刑されている。


英語版のウィキを見てみると
http://en.wikipedia.org/wiki/Andaman_and_Nicobar_Islands
日本軍は、1942年の3月23日に上陸
駐屯していた英印軍のインド歩兵団は、
同年10月2日に日本軍に降伏
1945年10月7日にイギリス領に戻る。

攻略するのに半年近く係っているのですねぇ・・・
しかも、その後は英軍の奪還計画で
海上補給路を断たれて、多くの餓死者を出すほどの
混乱した島だったらしいのですが・・・


------------------------------------------

★インド国民軍
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E6%B0%91%E8%BB%8D
太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍の支援によって
設けられた、英印軍の捕虜の転向者を中心とした
インド人部隊。

当初は日本軍がマレー作戦を優勢に進めるための
補助戦力としてゲリラ部隊的な色彩も強かったが、
インド独立運動の英雄の1人である
スバス・チャンドラ・ボースが来日し、
イギリス領インド進攻作戦が具体的に検討され始めてから
次第に重装備化され、本格的な軍隊となった
(現地で工作に当たったF機関は
 インド独立を本気で考えていたが、
 大本営の南方作戦には当初はインド攻略が
 含まれていなかった)。

日本の参謀本部は1941年7月ごろから
対英戦争の勃発を想定して、マレー半島における
英印軍兵士工作に着手した。
責任者として指名された藤原岩市は、タイのバンコクで
極秘にインド独立運動を展開していたインド独立連盟の
プリタム・シンに接触するとともに、F機関を結成した。

そして太平洋戦争(大東亜戦争)の勃発とともに、
F機関とインド独立連盟もマレー作戦に参加し、
英印軍兵士に対する工作活動を展開。
マレー半島西岸の街アロールスターで投降してきた
モーハン・シン大尉に、投降してきたインド人兵の
統括をゆだね、モーハン・シンはいったんは答えを
保留したものの、日本軍とインド人兵を対等に扱う
ことなどを条件にこれを承諾。
こうして日本軍はマレーやシンガポールで英軍と戦闘中に
捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募って
「インド国民軍」を編制した。
この軍隊は
「白人支配からアジアを解放するための組織」とされた。

さらに参謀本部は、インド国民軍の今後の展開について
インド独立運動家で日本に亡命していた印度独立連盟の
ラース・ビハーリー・ボースに意見を尋ね、
1942年3月に、東京において印度独立連盟を含む
在日インド独立運動家とインド独立連盟、インド国民軍
(旧英印軍兵士)の代表が会議を行うこととなった
(東京山王会議)。

~引用ここまで~

------------------------------------------

それにしても・・・
「日本人の警察に拉致された
 台湾人の慰安婦女性」ではなく
どうして
「日本籍の警察に拉致された
 台湾籍の慰安婦女性」なのだろう???

入学後1か月未満に拉致という事は
4月中?に拉致されて
3月23日に日本軍が初上陸したインドのアマンダンで
10月6日の降伏まで、イギリス・インド歩兵部隊が
抵抗していた戦闘状態の狭い島で、
  

食料の補給をしなければ、即、島民も日本軍も
餓死してしまうような農業形態の島で、
呑気に慰安婦のお姉さんと休息していられたのだろうか?


★植民地台湾における
 朝鮮人接客業と
 「慰安婦」の動員
 http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan1.htm
さて本稿では、
日本帝国にとって最初の海外植民地である、
台湾での朝鮮人接客業について基礎的な統計数値を整理し、
あわせて台湾を経由した朝鮮人「慰安婦」の中国大陸への
渡航事情について紹介する。
(中略)
植民地台湾において
朝鮮人接客婦が非常に多かった
点についてである(4)。
本稿ではこの問題を体系的に検証するために、
台湾総督府の年次統計書として刊行されていた
『台湾総督府統計書』(5)の掲載値を、
さまざまな角度から分析する。この作業を手掛かりに、
台湾社会における朝鮮人接客業の位相について、
大まかな見取り図を提示したい。

 次に日中戦争期に、台湾から相当数の朝鮮人「慰安婦」が
中国に渡航していた
ことも、すでに関心を集めている(6)。
駒込武氏の試算によれば、
一九三八年一一月から四〇年一月にかけて、
慰安所関係者に対する中国方面への渡航身分証明書・外国旅券
発給状況は、
日本人八二八名、朝鮮人五二八名、台湾人二六六名となっており(7)、
台湾からの渡航であるにもかかわらず、
台湾人の約二倍の朝鮮人に証明書等が発給されるという、
奇妙な現象が起こっているからである。

(中略)
一 台湾在住朝鮮人人口の推移
(略)
ところで表1-1・1-2でとりわけ目を引くのが、
朝鮮人の男女構成比の不均衡さである。
一九二〇年まで台湾在住朝鮮人のほとんどは男性で、
典型的な出稼ぎ目的の渡航であったと推測されるのに対し、
一九二五年以降はそれまで皆無に近かった朝鮮人女性が
男性を上回るようになった。
年ごとの変化が分かる一九三二年以降の統計値では、
一貫して女性が男性の、一・五倍から二倍近くに達しており、
女性の比率が異常に高いのである。

 こうした傾向は、台湾に渡航した朝鮮人女性に
「接客婦」が多かった点に理由を求めることができる。
『台湾総督府統計書』には、朝鮮人全体の人口統計値が
現れる以前から、警察取締営業中の「料理店」「飲食店」
「貸座敷」「芸妓」「娼妓」「酌婦」などの項目に、
朝鮮人従業者数が記載されていた。
このうち「接客婦」に分類される「芸妓」「娼妓」「酌婦」
「女給」などの推移をまとめたものが、表2である。
この表から、一九二〇年に娼妓四名が現れたのを皮切りとして、
植民地時代を通じて朝鮮人接客婦がコンスタントに増加し続けた
ことが分かる。
彼女たちが台湾在住朝鮮人女性全体に占める割合は
――統計値の不完全な
 一九三〇年以前は考察の対象から除外するとして――
一九三〇年代前半には約四割に達しており、
一九四〇年代初頭の時点でも三割近くという、
通常では考えられないような高率を示していた。
植民地台湾における朝鮮人女性の比率の高さは、まさしく
このような接客婦の多さに起因していたのである。


二 接客業従事者の特徴
 http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan2.htm
 (中略)
一九二〇年に初めて出現した朝鮮人娼妓が、
以後漸増しながら一九三〇年には一二九名となって
台湾人(一一九名)を逆転し、
以後両者の較差は年ごとに広がっていく。
朝鮮人娼妓数は三〇年代後半にやや落ち込む年があったものの、
ほとんど一貫して増加傾向を示しており、
四〇年前後には二五〇名に迫る勢いを見せ、
台湾全体の娼妓数の約四分の一を占めるに至った。
この点は、
一九一〇年代後半より停滞もしくは漸減傾向にあった
日本人・台湾人娼妓の動向と、著しい対照をなしている。
(略)

台湾では「内地」や朝鮮よりも娼妓の年齢下限が低いこと
(一六歳)が、低年齢の朝鮮人女性を台湾に流入させた
可能性がある。植民地朝鮮で「稼業」する娼妓の年齢は、
日本人よりも朝鮮人の方が低く、
このことは貧困などの要因によって、
低年齢層の「娼妓予備軍」が
朝鮮社会に蓄積されていたことを
示すからである。 
(略)

三 台湾経由で中国大陸に渡航した朝鮮人女性たち
 http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/taiwan/taiwan3.htm
(略)
 とくに注目されるのが、
一九三九年に日本帝国内から台湾に入航した朝鮮人女性と、
台湾から外国に出航した朝鮮人女性が急増している点である。
このことは、日本帝国内から台湾を経由して外国に渡った
朝鮮人女性が、この年に急激に増えたことを意味している。

 彼女たちは何を目的に、台湾経由で外国に渡航したのだろうか。
この疑問を解くため、改めて職業別に朝鮮人女性の出入航状況を
整理した(略)

目を引くのは、一九三九年に日本帝国内から台湾に来航した
女性のうち、この年急増した「商業」(三二一名)と
「無業」(二二一名)が大半を占めている点である。
「商業」の中には接客婦が含まれており、また台湾渡航の時点で
「無業」に分類されていても、接客業への従事を目的として
台湾に渡航してきた女性も多かったものと思われる。

一九三九年に来航した朝鮮人女性五七七名中、
慶尚南北道出身者が四〇四名と、
全体の七〇パーセントを占めていることも特徴的である。

このような傾向は、
翌一九四〇年以降も基本的に変わっていない。

~引用ここまで~

以上の論文は、「慰安婦」研究の論文である。
但し、日中戦争以降の朝鮮人接客業の急増データのみで
従軍慰安婦との関連を結び付けようとしているのだが
結論に至っていない。

何故、わざわざ台湾経由で中国大陸に輸送したのか
何故、台湾人や日本人の接客業よりも多くなったのか
まるで”解らない”と結んでいる。
戦争の激化と朝鮮人女性の台湾渡航急増と結び付けて
「従軍慰安婦」の根拠に結び付けたいのだろうが・・・
推論にしか過ぎない。

しかし、
これだけ多くの朝鮮人接客業女性が台湾入りしている
1942年に、わざわざ18歳の女性を拉致する必要が
あったのだろうか???
まだ制圧に至っていない、始まったばかりの
インド・アムールに、インド独立軍とのゴタゴタを抱えた
大本営も計画に入れていなかったF機関のインド独立作戦に
3月23日に上陸を果たした日本軍の為に
「4月末頃には拉致して用意する」必要がなさそうなほど
台湾には、台湾人接客婦よりも多くの朝鮮人接客婦が
営業をしていたことだけは、台湾総督府の警察データから
読み取れる。

そういえば、戦後2年間も
台湾で”慰安婦をさせられていた”
韓国のお婆さんが居ましたっけねぇ・・・

------------------------------------------

おまけ
★植民地インドのイギリス軍慰安所
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B0%E5%AE%89%E6%89%80
1893年のインド駐留イギリス軍の売春制度の調査では、
利用料金は労働者の日当より高く、
また女性の年齢は14〜18歳だった。
当時インドのイギリス軍は、バザールが付属する
宿営地に置かれ、バザールには売春婦区画が存在した。
主に売春婦カーストの出身で、なかにはヨーロッパから
渡印した娼婦もいた。
売春婦登録簿は1888年まで記録されている。

第二次世界大戦の時代には
イギリス軍は公認の慰安所は設置せずに、
現地の売春婦や売春宿を積極的に黙認した。




余談ですが。

ここで出てきた高等女学校。
今の中学校に相当します。

今なら、義務教育なので誰もが通いますが、当時は良家の子女しか通えませんでした。
ウィキペディアによると、1%未満だったそうです。

しかもこれは日本国内での話。
朝鮮や台湾だと、もっと下回るはずです。

ましてや大学となると、日本国内でも、男性で100人に1人くらい。
女性で大学までは通う人は、ほとんどいなかったといっても良いでしょう。

何しろ授業料が支払えない人は、成績の問題以前の話で、門前払いです。
しかも、普通のサラリーマンの親では、まず支払いは無理かと。


とにかく、先の慰安婦の証言、いまの時代の感覚で文面を読むと、大局を見失ないますね。

  
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : 伝えたいこと - ジャンル : 日記

コメント

コメントの投稿

現在の閲覧者数: free counters