諡字による諡号の意味

 
触れにくい内容なので、以前はブロ友限定版としましたが。
天皇の諡号(しごう)についてです。

ウィキペディアにも出ているようなので、差しさわりのない部分を公開します。
元々は、井沢元彦氏の説なのだそう。

1つは『徳』

不幸な死に方をした場合に、つけられたのだそう。
怨霊封じのためだそうです。

もう1つは『光』

傍系から出た場合に、つけられたのだそう。
いわば、その正統性を主張するためですね。



 (ウィキペディアより)

諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。


諡字による諡号の意味

日本の諡号に用いられた諡字について、次のような説がある。

「徳」‐殺害されたり辺地や流刑地で没したりした天皇に、怨霊封じのため贈られた美称である(井沢元彦の説 - 逆説の日本史より)。

・元々は懿徳天皇や仁徳天皇のように、本当に徳のある(と考えられた)天皇に贈られた。

・飛鳥時代末期から鎌倉時代初期にかけて、皇太子に実権を握られ都に置き去りにされ崩御した36代孝徳、藤原良房と対立したために内裏に住むことができなかった55代文徳、流刑先で崩御した75代崇徳、82代顕徳(後に後鳥羽と改めた)、84代順徳、平家滅亡の際に入水した81代安徳が該当する。また、崇徳、顕徳、順徳、安徳の4人の天皇をまとめて「四徳」と呼ぶことがある。なお井沢説によると、徳の諡字が怨霊封じとして贈られた最初の例は(天皇ではないが)聖徳太子とされる。

・ただし怨霊封じのために徳の字を贈る習慣が続くと、逆に「徳の字を贈られた天皇は、怨霊となる可能性のある悪天皇だ」という認識になり、「顕徳」の諡号を贈った天皇の霊が立腹し祟りをなした(と考えられた)事件が起きたため、改めて「後鳥羽」の諡号を贈り直す事となり、怨霊封じとしての徳の字の使用は終焉した。

・南朝の96代後醍醐天皇には、当時対立していた北朝から「元徳院」の諡号を贈る案が出されたことがある(ただし、在位中の同名の元号からとった単なる通称であるとの反論もある。実際には本人の遺諡により後醍醐と追号された)。

・「四徳」や「元徳」は、追号が続いていた時代に諡号を贈られたこと自体が、異例のことである。


「光」‐傍系から出て皇位を継承した場合、中国の後漢の光武帝になぞらえて、「光」の字を贈ることがある。

49代光仁、58代光孝、119代光格の3人の天皇は、いずれも先代から見て傍系の出身である。ちなみに、光孝天皇の次の宇多天皇から、光格天皇の前の後桃園天皇まで、上記の「四徳」や、明治維新後に追諡された天皇を除いて、諡号を贈られた天皇はいない。

南北朝時代の北朝の天皇は、自身の正統性を主張するためか、後円融天皇を除き、遺諡によって「光」の字を含んだ追号を持つ。後円融天皇も、平安時代に対立した2つの皇統のうち後世に皇位を伝えた方の初代である円融天皇の加後号を遺諡としている。また、南北朝合一時の100代後小松天皇も、光孝天皇の異称「小松天皇」の加後号を遺諡としている。


・101代称光天皇は、奈良時代に天武天皇系の称徳天皇から天智天皇系の光仁天皇へ皇統が移行したことを踏まえて、両者から1字ずつ取った追号である。後光厳天皇系の称光天皇の次は、崇光天皇系の後花園天皇が即位し、皇統が移行している。

・「天智」「天武」の諡号には、放伐の意図が込められている(井沢元彦の説 - 逆説の日本史) 天智天皇の諡号は、殷の紂王が焼身自殺した際に携えていた宝石:「天智玉」に由来する。一方で天武天皇の諡号は周の武王を意識したものである。これは天武天皇が自らの行為を放伐と認識していた事を意味する。



 
 
ところで、この『光』の字。

傍系でありながら、つかなかった天皇もいるんですね。
直系でありながら、ついている天皇もいるんですね。

まだ漠然としていますが、その理由が何となく分かってきました。

  
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