慶長伊予地震は連動していた

 
先日大きな地震がありました。
当地でも、大きく揺れました。

ところで、16世紀末に同じ海域であった地震(M7.0)。
3日後に大分(M7.0)、4日後に京都(M7.0)と連動したのだそう。

要注意ですね。


慶長伊予地震 (ウィキペディアより)

慶長伊予地震(けいちょういよじしん)は、1596年9月1日(文禄5年閏7月9日亥刻)夜に発生した地震である。慶長伊予国地震とも呼ばれる。

概要

中央構造線断層帯の川上断層セグメント(岡村断層・石鎚断層・川上断層・北方断層・重信断層・伊予断層)のトレンチ調査で確認されている最新の断層活動の有力候補とされる地震である。また、これらの断層の東方延長の池田断層・父尾断層も同時期(16世紀)に活動したという調査結果があるが、これを否定する見解もある。断層の長さから推定される地震の規模はマグニチュード7前後であるが、被害記録は限られており正確な規模は不明である。

3日後の1596年9月4日に豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震と、4日後の1596年9月5日に発生した慶長伏見地震(共にM7.0規模と推定)を合わせて、中央構造線上及び、その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つとされる。こうした天変地異の多発によって同年中に文禄から慶長へと改元がなされた。




慶長豊後地震 (ウィキペディアより)

慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。死者800余人。島の実在自体が未確認であるが、別府湾にあった瓜生島(沖ノ浜(沿岸陸地))と久光島の2島が沈んだと伝えられる。

別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。

概要

震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9~7.8と推定される。別府湾-日出生断層帯東部の別府-島原地溝帯に沿って発生した大陸プレート内地震である。

文禄5年7月から地震が頻発、翌閏7月まで続き、閏7月12日申刻(午後4時)に本震が発生、津波も発生した。津波による流出家屋数千戸、死者708名、高崎山と由布岳の山崩れなどの被害をもたらした。

相前後して、閏7月9日に慶長伊予地震、閏7月13日に慶長伏見地震(共に規模はM7.0と推定)が発生。天変地異の多発により、10月27日、文禄から慶長へ改元された。



慶長伏見地震 (ウィキペディアより)

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)子の刻に現在の京都・伏見付近で発生した大地震である。慶長伏見大地震とも呼称される。京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超える。

概要

現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯、及び六甲・淡路島断層帯を震源として発生したマグニチュード(M)7.0 - 8.0程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である。地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられており、完成したばかりの伏見城天守もこの地震により倒壊し、城内だけで600人が圧死したと言われている。

京都では東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺等が倒壊し、被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、大坂・堺・兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。又、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている。

木津川河床遺跡・内里八丁遺跡(八幡市)等では顕著な液状化跡が見つかり、玉津田中遺跡(神戸市)や田能高田遺跡(尼崎市)等で、液状化現象が発生した痕跡がある。又、今城塚古墳(高槻市)と西求女塚古墳(神戸市灘区)における墳丘の地すべりは、この地震による地震動によるものであると推測されている。

この地震の4日前には現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震が、また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾-日出生断層帯の東部を震源とする慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しており、双方の地震による誘発地震の可能性が指摘されている。これらの天変地異が影響して、同年中に文禄から慶長へ改元が行われた。また、兵庫県南部を中心に甚大な被害となった1995年の兵庫県南部地震(M7.3)は、本地震で破壊された六甲-淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されている。

この地震による著名な死者としては加賀爪政尚、横浜一庵がいる。



 
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