和歌は、言霊

 
日本の和歌は、言霊に基いて、大自然と接しようとしたのが、その始まりだそうです。
日本の国歌:君が代も、歌詞は元々は古今和歌集にある和歌です。(注:作者不詳)

 君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石の
 巌(いわお)となりて
 苔(こけ)のむすまで




この言霊に基いて、祈りをささげているんですね。
特に、天皇の詠む歌は、国の代表として、神に祈りをささげる歌。
だから、皇室行事で一番大切なことでもあるのだそうです。

君が代を読むと、なるほどたしかに、祈りの歌ですね。
この国の永い繁栄を祈願する歌です。

優雅な遊びだとばかり思っていましたが、それは和歌のいち側面に過ぎなかったようです。


http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/55599079.html
2014年05月14日
中杉博士の大説法190 大日本帝国は生きている 53 言霊(ことだま)


 我が国は昔から「言葉が生きている」という思想があります。言葉は生きているということを『言霊(ことだま)』といいます。「言葉は魂だ」ということと同じ事です。古来より日本では災いが起きてくる時、地震を鎮める時、和歌をもって大自然と接触しようとしたのが和歌の始まりです。和歌は外国にはなく日本独自のものです。
この『言霊』というものが、現在でも伝わっていて日本人は和歌を作り続け、和歌と共に生きてきたのです。皇室行事で一番大事な事は、和歌をつくることであり、教養の第一位にあげられる事は、和歌をつくる能力です。そのくらい言葉を大事にしてきたのが、わが民族なのです。
『言霊(ことだま)』というのは、よく考えてみると「言葉が魂」ということです。まず第一番に嫌うことはウソをつくことです。ウソをつくことが許されるなら、『言霊』は生まれないのです。ウソは仮無です。実際に無い事を言葉で表すのですから、事実ではないのです。ウソと『言霊』は正反対の関係にあります。
言霊を大事にしてきたわが民族は、ウソを嫌ってきたのです。このくらいウソを嫌ってきた民族はいません。この世を去るにあたり、優秀な人達は『辞世の句』をつくったのです。これも言霊です。吉田松陰の言霊は何かというと、「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」です。
三島由紀夫の辞世の句は、「益荒男が手挟む太刀の鞘鳴りに幾年耐えて今日の初霜」「散るを厭う世にも人にも先駆けて散るこそ花と吹く小夜嵐」です。三島由紀夫は辞世の句は、二つあります。
これも和歌です。和歌とは言葉を持って、この次の生につなげていこうとすることなのです。事を成した人は、辞世の句を残しているのです。
また、関東一円を治めた北条早雲は、家訓が残っています。「これから、このように守っていかなければならない」と言葉で残しています。その第一条が、「ウソをつくな」ということです。北条早雲の家訓の第一条は「ウソをつくな」ということです。
考えてみてください。ウソをつくなら、人間は簡単に何でも成れるのです。ノーベル賞学者にも成れるのです。東大にも入れます。大資産家にもなれます。「皇室の血筋を引く」とも言えます。いくらでも中身のないウソなら言えます。聞いた人は、騙せるかもしれませんが、そのような言葉を発していくとその人は中身がなくなってしまいます。ウソをつけば、簡単に何にでも成れるのです。
東大に入るためには、何年間も塾に通い努力しなければ入れません。それが簡単に「俺は東大が出身校だよ」とウソをつくと、この一言で努力は消えて「東大」という結果が得られるのです。ウソをつけば、「俺の家は昔、男爵だ」とも言えます。「私は有栖川宮家の御落胤だ」と言った馬鹿もいます。未だに「殿下」と呼ばれているのです。
何の努力もせずに、ウソくらい簡単になれるものはないのです。「私は今こんな状態ですが、ニューヨークに行けば大富豪です」という人間もいます。ウソをつくと、何でもできるのです。それは、ウソをつくごとに『言霊』の響きを失って、言葉の意味がなくなってしまうのです。最終的には、「あいつはウソつきだ」ということになり、何を言っても信用されなくなります。「あいつは、ウソつき、ホラふきだ」というレッテルが貼られてしまったら、誰もその人間に信をおかなくなってしまいます。
「お金貸してくれませんか?」と来ても、ウソつきと分かったら誰もその人間にお金など貸しません。「本当に生活が困っているので、助けてくれませんか?」と言われても、「お前、ウソつきだろ、助けないよ」と言われてしまいます。「ウソつき」というレッテルを貼られたら、何を言ってもダメなのです。何もできません。
社会がそれを認めたならば、それは人間のクズなのです。「ウソつき」と言われたら人間のクズです。クズと一緒に仕事をする人間はいません。クズと人生を歩む人間はいないのです。ウソをつくということは、「人間のクズだ」という証明になって人生が終わってしまうのです。
このようにウソというものは、簡単に始まって、恐ろしい結果を招くのです。昔の人は「ウソつきは、ドロボウの始まり」とよく言ったのです。ウソをつくとはそういうことなのです。結局、事実とは違うことを言うのですから、「人がお金を持っている。あれを取ってしまおう。あれは俺のお金なのだよ。取ってもいいのだ」という理論になってしまうのです。ウソなのです。
統一教会も大ウソがあります。「韓国は神の国で、日本は悪魔の国である。日本から財産を奪って神の国に返さなければならない。これを復帰原理という。全ての日本の財産を韓国の神様(文鮮明)に返さなければならない」そのような論理を教えて、日本人の財産を奪ってきた文鮮明は、ヘリコプターが撃墜されて、黒焦げになって死んだのです。最近死んだ文鮮明は偽物です。文鮮明はヘリコプターで死んでいるのです。ウソはその身を滅ぼすのです。これが大事なことです。
薩摩では、「義(ぎ)を言うな!」ということです。「ウソをつくな!」ということです。薩摩は、郷中(ごうちゅう)制度があります。1軒の家で男子は、12歳くらいから、23歳くらいまで一緒に生活をするのです。そこで一番上の兄貴分がいるのです。そこで、徹底的に教育をされるのです。郷中教育の頭が西郷隆盛です。みなから慕われていたのです。そこで、どんどん組織ができて、彼等が教えることは、「義(ぎ)を言うな!」です。屁理屈を言と、「義(ぎ)を言うな! 行動で示せ。お前の言う言葉は意味がない」と言われてしまうのです。「ウソを言うな」ということうです。「グチャグチャいう前に、体で行動しろ!」、これが薩摩の教えです。
生麦事件(1862年)の時に、薩摩の行列が東海道を通った時に、その前を英国人が馬に乗って通り過ぎたのです。それでもう終わりなのです。誰も「アイツをやっつけろ!」と言いません。藩士が走って行って、いきなり切り殺したのです。「義(ぎ)を言うな!」という教育です。ともかく、「殿様の前を通る無礼者がいたら、ただちに行動しろ!」これが薩摩の怖さなのです。討論して「ああだ」「こうだ」と言わないのです。討論はないのです。直ちに行動です。
彼等の剣法の示現流(じげんりゅう)もそうなのです。普通は、袴に着替えて稽古に行くのですが、そんな事はしないのです。野良着でいいのです。ジーパンでよいのです。敵がどこから出てくるか分かりません。その時に袴をはいたりしないのです。台所にいる人はそのまま、野良仕事をやっている人はそのままの格好で、敵と対戦しなければいけません。これが示現流の考え方です。これも、「義(ぎ)を言うな!」に通じています。
人間は一旦帰って「ああだ」「こうだ」とい議論していたら、行動はできません。黙って行動するのです。
これは三島由紀夫の『行動学入門』という本に詳しく書いてあります。「義(ぎ)を言うな!」ということです。このような行動は、言霊として日本精神として伝わっていて、非常に需要な教えであり、ウソを言わない日本人です。ウソを言わないとは、真面目な日本人ということです。日本人が尊敬されるのは、ウソをつかないということです。
正直で、素直ではったりもかまさない、泣いたりわめかない、黙って行動するのです。それが日本精神です。その精神が今でも日本精神として日本人の中に生きています。


早雲寺殿廿一箇条(北条早雲の家訓)

一、上下万民すべての人々に対して、言半句たりともうそをいうようなことがあってはならぬ。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。うそをいっていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れがいった言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにもうそはいわぬように心掛けなくてはならぬ。



 
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