鹿苑院太上法皇の意味

 
<追記> 文末に追記 2014/6/3



その昔、こんな建物を作った人がいました。
金閣寺です。

(ウィキペディアより)
金閣寺

別名、鹿苑寺(ろくおんじ)とも言います。
この鹿苑とは、この寺の創設者である、足利義満のことを指します。

歴史上は、功罪(こうざい)相半ばする人物ですね。
皇位簒奪を狙っていたとも言われます。

死後に朝廷より、「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られました。
天皇家とは、直接的な血の繋がりがないのに、異例の厚遇です。

朝廷もそれなりに、その存在を認めていたということになります。

足利 義満 (ウィキペディアより)

足利 義満(あしかが よしみつ)は、室町時代前期の室町幕府第3代将軍(在職1368年 - 1394年)である。父は第2代将軍足利義詮、母は側室の紀良子。

南北朝の合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治、経済、文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。

死後

義満の死後には朝廷から「鹿苑院太上法皇」の称号を贈られるが、4代将軍となった子の義持は斯波義将らの反対もあり辞退している(その一方で相国寺は受け入れたらしく、過去帳に「鹿苑院太上天皇」と記されている)。永楽帝は義満を評価しており、その死の翌年に弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義持は義満が偏愛した義満の次男・義嗣が出奔した際に、謀反を企てたとして殺害している。のちに義嗣の子孫は越前に下り、子孫は鞍谷御所と呼ばれるようになった。

6代将軍となった子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺されたことで頓挫する。孫の8代・義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。

皇位簒奪と暗殺説

田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えており、これを受けて作家の海音寺潮五郎、井沢元彦らは義満の死は皇位簒奪を阻止するため暗殺されたのではないかとの意見を提示している。

義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母(天皇の母扱い)ついで女院にしたり、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。1408年(応永15年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。しかし、その後の研究では義満以降の日本国王号が日本国内向けに使用された形跡がないことから、国王号が朝廷に代わる権威としてではなく朝貢貿易上の肩書きに過ぎなかったと評価されている。

なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。

暗殺説を取る者は、簒奪を阻止しようとした朝廷側による毒殺であると疑っている(井沢は著作で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理)。また、他には義満の義嗣偏愛によって将来が不安視された義持の陣営による暗殺と見る説もある。

しかし、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はない。また、皇位簒奪計画の最大の障害になる筈である儲君躬仁親王が何らかの圧迫を受けていたとする記録も無い(井沢は、死後に太上天皇の名を贈られていることは、暗殺による義満の怨霊化を防ぐという怨霊信仰に基づくもの、としている)。

今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年(しかし現在では亥年生まれとされる)生まれ、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。また井沢は、『源氏物語』をヒントにしているのではないかと推測している。

義満のとった措置は子の義持によって改められた。義満への太上天皇贈位は辞退され、義持に対し、公家達が義満と同様の礼を取ろうとした際も、義持は辞退している。ただし、その義持も義満の朝廷政策の全てを否定していた訳ではなく、義持の花押は公家様の花押しか伝えられておらず、公家の家門安堵に関与して後継者に偏諱を授与したり、称光天皇(躬仁親王)の御名を改めさせる(天皇の御名変更は義満ですらなし得なかった)など朝廷への影響力行使を続けており、天皇との直接的な距離は置きつつも朝廷に対する関与路線は継続されている。

仮に簒奪計画があったとしても、それは義満一人の計画であり、義持や管領斯波義将を始めとする守護大名達は参画していなかった。近年では、王権簒奪説に対する批判が相次ぎ、もはやそのままでは成立しない学説となっている。



と、ここまでは、通説の言うところですが・・・。

でもこれは、朝廷がわざと仕組んだ、最高の『嫌味』ですね。
相手が絶対受け入れることがないと分かっての行動です。

実際に足利家は、この称号を辞退しています。

何故なら、この『鹿苑院』
鹿を放し飼いにしたという意味ですね。

先日来より、小倉百人一首について勉強しているんですが。
鹿が登場する歌が幾つかあります。

この鹿の意味。
第5番歌、第8番歌に出てきます。

http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2550.html

第5番
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫(男)


(人物および時代背景)

猿丸は、いわばペンネームである。
実名も生没年も不詳である。

同じペンネームを使う人物は一人だけではなく、時代を超えて複数いたのかもしれない。

太夫は公職にある人間であることを示している。
今風に言えば、匿名の政府高官筋とでも言えようか。

こういう匿名の人も、百人の中に選ばれていることに留意。

作者が匿名ゆえ、時代そのものが分からない。
したがって、時代背景は、文面より想像するしかない。


(歌の解釈)

奥山の奥は、天皇や公家のお住まいだろう。
紅葉は、お住まいにある、赤く染まった柱など煌びやかな象徴。

辰砂の赤い塗料は、神社の鳥居などでよく見かけます。

鹿は武士。
その鋭い角は、武士の象徴である刀を連想させる。

秋が深まると、鹿は交尾の時期を迎える。
オスはメスを求め鳴き、メスを巡って争う。
自分の遺伝子を残したいのだ。

おそらくこの武士は、台頭してきた平氏であろう。
本来は、天皇や公家の家来である。


秋は勢力が衰えてきた様を指す。
武士とは対照的に、朝廷の権威や権力は、日に日に落ちている。

本来は下級役人に過ぎなかった武士たちが、天皇や公家の住居にずかずかと乗り込むようになってきた。
そして、天皇や公家の子女を巡って、互いに言い争い合っている。
遠戚関係をもちたいのだ。

下品だ。
そして、なんと身の程知らずの連中なのだろうか。

とはいうものの、武士の台頭により、日に日に、朝廷の権力が落ちている事実がある。

そんな武士たちの声を聞くのは、まことに嘆かわしいなあ。
こういった趣旨ではなかろうか。

作者が匿名の政府高官なのは、こういう理由があるからである。
大っぴらに口外するのは、憚(はばから)られたのであろう。


なお、我が国には、このような自浄作用をもつ内部告発を受け入れる土壌があることも、併せて示している。

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なおこの『鹿』とその振る舞いは、下記の歌とも共通するのだろう。

第8番
わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
喜撰法師(男)


(人物および時代背景)

喜撰法師なる人物は平安時代に実在したそうだが、その詳細は不明であり、ほとんど匿名に近い存在であったとも言えよう。
第5番目の歌と同様に、当時は大っぴらには言えないような状況だったのだろう。
(歌の解釈)

鹿は、秋の季語。
この秋も同様に、朝廷の権威や権力の低下している様を示す。

うぢは氏、宇治、そして蛆。

喜撰法師の住む都の南東(宇治)に、多くの武士たちが住むようになってきた。
新たに氏が与えられた新興勢力である。
どこからか湧いてきた蛆虫のように、山のようにたくさんいる。

そして、朝廷権力の低下とは対照的に、権力の中心へ台頭してきた。

平穏な日々を過ごしていたんだがなあ。



第83番歌にも出てきますね。

第83番
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成(男)


鹿は武士を指す隠語。
武士の台頭で、世の道理が失なわれつつあることを、嘆いている歌ですね。

この足利義満。
天皇の妃や公家の妻に、片っ端から手を出していたんですね。

その行動は、まさに盛りのついた鹿そのもの。(笑)
鹿苑院とは、その盛りのついた鹿を放し飼いにした所、という意味になります。

まさに、足利義満そのものですね。

そもそも諡号に動物の名前は、ほとんどつくことはありません。
鳥羽、後鳥羽、朱雀、亀山、後亀山ぐらいですね。

いずれも悪いイメージは感じません。
朱雀や亀は、むしろ良いイメージさえ感じます。

だからもちろん、その諡号に『鹿』がつく天皇は、歴代に1人もいません。
蔑称になるからです。

何故足利義満の遺族が、名誉ある太上法皇の称号を辞退したのか、その訳が分かりました。

金閣寺、別名、鹿苑寺。
その名の由来は、こんなところにあったんですね。

でも平成を生きる我々は、こんなこととは露知らず、今でもお参りしているんですね。

 
 
<追記>

天皇の諡号は、いわば戒名です。
というか、歴史的には諡号が先にあって、それを真似て、多くの人を対象とした戒名が後にできました。
いずれも死後に名付けられます。

ちなみに、現在の天皇は、今上天皇と呼ばれます。
一世一元の制により元号と同時に諡号(追号)がほぼ確定しますが、まだ生きているうちに、○○天皇と呼ぶのは失礼になります。
戒名だからです。

そういう意味では、この鹿苑院太上法皇という諡号は、差別戒名の先駆けとも言えますね。

まぁ、真意は積年の恨みを晴らすという点にありますが。
でも力では勝てないので、嫌味という少々陰湿なやり方で…。

 
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