鹿鳴館の意味

 
先日の記事の余談ですが。
まぁ、大した話ではないので、興味のない人はスルーして下さい。

鹿苑院太上法皇の意味
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2648.html

鹿は秋の季語。
一年中いるはずなのに、何故か秋の季語。

その理由は、秋に盛りがつくから。(笑)
交尾の季節なんですね。

雌を巡って下品な声で鳴き、雌を巡って雄は互いに争い合う。
角を向けて、荒々しく戦うんですね。

この姿は、当時の公家たちから見ると、まるで武士そのもの。

だから足利義満に与えた称号:鹿苑院太上法皇。
これは、実は蔑んだ意味なんですね。

おそらく、その趣旨を理解したのでしょう、遺族は贈位を辞退しました。




さて鹿が鳴くと言えば、昔こんな建物というか社交場がありました。
鹿鳴館です。

外交の場として、明治政府によって建てられました。
中国の『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語だとして、中井弘という人物が命名したそうです。

鹿鳴館 (ウィキペディアより)

鹿鳴館(ろくめいかん)は、国賓や外国の外交官を接待するため、明治政府によって建てられた社交場である。鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」、欧化主義が広まった明治10年代後半を「鹿鳴館時代」と呼ぶ。当時の極端に走った欧化政策を象徴する存在でもあった。

建物は後に華族会館となり、1940年(昭和15年)に取壊された。

鹿鳴館時代

同館落成の明治16年より明治20年までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。明治16年(1883年)11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。

一方、欧化政策を批判する国粋主義者は「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」として非難の声を挙げていた。また当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でもその大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。

井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞任した。鹿鳴館時代はこうして井上とともにその短いが燦然とした歴史に一応の幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催されている)。



各国の外交官は、治外法権をもっていました。
さらには、刀をもたないとはいえ、武器をもっています。

これはまさに、鹿ですね。

そして案の定、この場は鹿が鳴く結果となったようです。
評判も良くなく、わずか数年で幕を下ろすこととなりました。

明治政府が作った社交の場。
鹿鳴館という名称は、最終的には天皇が了承したということですね。

意味深ですね。

不平等な条約を強いる外国人たち。

そんな不遜な外国人に負けないよう、そういう気持ちを込めて封じ込める。
そんな言霊を感じさせられました。

まぁ、こんなことを感じるのは、私だけかもしれませんが。(笑)

 
 
同じ鹿ひとつとっても、日本人と中国人では、捉え方がずいぶん違うというか全く逆というか、大きく違うものですね。

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