水無瀬絵図には、七夕伝説が秘められていた

 
小倉百人一首の水無瀬絵図。
http://oyoyo7.blog100.fc2.com/blog-entry-2748.html

重要な点を見落としていました。
北西に位置する式子内親王と、南東に位置する藤原定家。

二人は恋仲だったんですね。
年齢的には、式子内親王の方が、一回りも上になりますが。

相思相愛だったようですが、何らかの障害があって、仲を引き裂かれたようです。

式子内親王 (ウィキペディアより)

藤原定家との関係

藤原俊成の子定家は1181年(治承5年)正月にはじめて三条第に内親王を訪れ、以後折々に内親王のもとへ伺候した。内親王家で家司のような仕事を行っていたのではないかとも言われているが、詳細ははっきりしない。定家の日記『明月記』にはしばしば内親王に関する記事が登場し、特に薨去の前月にはその詳細な病状が頻繁な見舞の記録と共に記されながら、薨去については一年後の命日まで一切触れないという思わせぶりな書き方がされている。これらのことから、両者の関係が相当に深いものであったと推定できる。

後深草院は、西園寺実氏が定家自身から聞いた内容を語った話として、

いきてよもあすまて人はつらからし 此夕暮をとはゝとへかし

— 『新古今和歌集』 巻第十四 恋歌四

この式子内親王の恋歌は、百首歌として発表される以前に、定家に贈ったものだと記している。こうした下地があって、やがて定家と内親王は秘かな恋愛関係にあったのだとする説が公然化し、そこから「定家葛」に関する伝承や、金春禅竹の代表作である謡曲『定家』等の文芸作品を生じた。また、そのバリエーションとして、醜い容貌の定家からの求愛を内親王が冷たくあしらった、相思相愛だったが後鳥羽院に仲を裂かれた、あるいは定家の父藤原俊成も彼等の仲を知って憂慮していた等々、いくつもの説が派生したが、いずれも後代の伝聞を書きとめたものであり、史実としての文献上の根拠はない。15世紀半ばから語り伝えられていたという「定家葛の墓」とされる五輪塔と石仏群が、現般舟院陵の西北にある。

恋愛感情とは別に、定家が式子内親王について記す際、しばしば「薫物馨香芬馥たり」「御弾箏の事ありと云々」と、香りや音楽に触れていることから、定家作と言われる『松浦宮物語』中の唐国の姫君の人物設定が、内親王に由来する「高貴な女性」イメージの反映ではないかとの指摘もある。




北西に位置する式子内親王と、南東に位置する藤原定家。
相思相愛だったようですが、何か障害があって、後鳥羽院に仲を引き裂かれた。
そういう説もあるそうです。

きっと、夜空を見上げながら、物思いにふけったのでしょう。
するとそこには、こんな星空が…。

http://www.nikon.co.jp/channel/stars/1307/index.htm
2013年7月15日 深夜1時ごろの空 補正1
(注:見上げているので、東西が逆になります)

北東から南西に伸びる天の川。
その北西側には織女星(ベガ)が、その南東側には牽牛星(アルタイル)が輝いていました。

七夕伝説ですね。
仲を裂かれ、年に一度しか逢えなくされました。

ところで、陰陽道では、西と北が陰、東と南が陽とされています。
その境が鬼門(北東)、裏鬼門(南西)とされています。

この鬼門と裏鬼門を結んだ線が陰陽の境となるわけですが、これは天の川の伸びる方向とも一致しているんですね。
(というか、起源を辿って行ったら、元々はそういうことだったということかも知れませんね)

藤原定家が選んだ小倉百人一首。
その中に水無瀬絵図を隠しました。

さらには、自分(藤原定家)を南東に、式子内親王を北西に配置し、自分の変わらぬ思いを人知れずそっと秘めた。
長い歴史を乗り越え、後世にまで遺すために、、、

これが、本当の目的だったのかも知れませんね。

 
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