なぜ今「天皇主権説」再考なのか・その4 (連載「パックス・ジャポニカ」への道)原田武夫

 
いろいろと内容が深いです。

要約すると、こんな感じでしょうか?

・日本の破たんは、早ければこれから2年後、遅くとも5年以内
・普通の国の場合、戦争か天災かが引き金となるが、日本の場合は後者の可能性が高い。
・他国の戦争により、行き場を失った資金が日本に向かい、バブル化する。
・バブルがあろうとなかろうと、ほどなくして破綻、そしてハイパーインフレーションが起こる。
・その後、民主主義(多数決)は機能しなくなり、天皇主権の流れへと変わる(戻る)。


なぜ今「天皇主権説」再考なのか・その4 (連載「パックス・ジャポニカ」への道)原田武夫
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/604.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 10 月 22 日 18:07:27: ulZUCBWYQe7Lk




http://blog.goo.ne.jp/shiome/e/3d9981aa10f3b7ec4980654709aa2961

ここに来て我が国「言論界」において展開されている国家を巡る議論は大別して次の3つである。



●パターンA

「我が国の国家は強大な存在であり、それに『抑圧された個人』が敢然と立ち向かう姿を描く」

●パターンB

「我が国の国家は財政破綻寸前であり、個人資産を如何にして防衛すべきかを描く」

●パターンC

「我が国の国家は精神的に隣国のそれと比べて優位であり、しかも財政破綻はしないと述べる」




パターンAの典型が佐藤優である(以下敬称略)。強大な国家によって抑圧され続ける個人の解放を描くと言うモチーフはかつての左翼文学に通じるものだ。そこでは資本の集積を続けるマシーンとしての「資本家」とそのための道具(Apparat)である「国家」は永続的に肥大化していくことが暗黙裡に前提となっている。

当然のことながらこのパターンAでは「国家が財政破綻する」ことなど全くあり得ないこととされている。なぜならば肝心の国家が破綻してしまっては開放されるべき個人も存在しなくなってしまい、その旗手であるべき著者と読者の共通感覚としての疎外(Entfremdung)もあり得なくなってしまうからだ。したがって仮に我が国が今、経済・金融の面で困難に直面していたとしても、それは所詮、「新自由主義」というより大きな潮流によるものであって、国家という永続的な存在そのものとは無関係なものであるとそこでは整理される。

パターンAは我が国の国民世論において特徴的な「判官びいき」に訴えかけるものでもある。左翼言論に青春の郷愁を感じ、かつ我が国最大の読者層(reading class)でもある「団塊世代」以上の人々にとっては懐かしい思考のフレームワークでもある。したがって2005年頃よりハイライトされるようになって以来、今のところ安定的な読者を獲得している。

だがこのパターンAに未来はない。なぜならば反抗の対象であり、裏を返せば甘えの対象であるべき我が国の国家は程なくして事実上のデフォルト(国家債務不履行)処理に突入するからである。そのプロセスの当初、「誰がデフォルトを招いたのか」という責任論の構図の中でこのパターンAは生き残りをかけた議論を展開することが容易に想像出来る。しかしながらいかんせん、問題はもはやそうした日常的なレヴェルにとどまらないことを加速をつけて進行する現実が如実に示し続けるのである。結果、パターンAはこの5年以内に息をひそめざるを得なくなるようになる。



パターンBの典型が副島隆彦である。それは「強大な国家とその抑圧からの解放を試みる個人を描く」という構図という意味ではパターンAと共通している。そのルーツは我が国の高度経済成長期に典型であった左翼言論の思考の枠組みであることは言うまでもない。

ただしパターンBがパターンAと決定的に異なっているのは、「強大な国家の背景には国際金融資本とそれに操られた米欧エリートのネットワークが存在している」という議論を展開している点である。つまり国家が強大であるのは、その背後にもっと強く、巨大な守護神が控えているからだというわけなのである。

ここでキーワードとなってくるのが「国際金融資本」である。具体的な家系の名前(「・・・家」)といった形でそれに属する個別具体的な人物とその人柄や人脈を一方的に指摘し続けることで読者を圧倒する。その上で読者は検証手段を持たないため、それに盲従するか、あるいは拒否するかのどちらかの選択を迫られることになる。仮に後者の選択肢を選び取った場合、パターンBのスキームにおいては著者から罵倒され、その無知蒙昧さをなじられることになる。

それでも読者が結果的にパターンBの著者たちに従ってしまうのは、我が国において潤沢な個人資産を未だ享受することの出来たこれら読者が日本人に特有の「富の退蔵(hoard)」傾向に従い、何としてでも自らの資産を守ろうと努力しているからだ。パターンBの著者たちはそのことを熟知しており、個別具体的な「出口」(金融商品の紹介)を巧みに示しながら、仮に資産運用で損失が生じたとしてもそれは全て「悪の国際金融資本によるものである」と説明を施すことによって、結果としてあてどない金融マーケットにおける博打へと年金世代の読者たちを誘うのである。

しかし残念ながらこのパターンBも著者としての「必勝の方程式」にはならなくなりつつある。なぜならば肝心の「富裕な年金世代の読者層」が徐々に「生物学的な解決(Biologische Loesung)」、すなわち生物としての淘汰の過程に入り始めているからだ。しかも大前提としている金融資本主義の永続性に疑問符がつけられるといった事態に陥る時、こうした著者たちは普段の冷静さを失い、時に余りにも滑稽な論まで展開するようになる。東日本大震災(2011年3月11日)による福島第一原子力発電所の被災、そしてそこからの放射性廃棄物の大量拡散という現実を前にして「福島に移住するか、否か」という選択肢を読者に迫るといった態度がその典型である。



パターンCの典型が三橋貴明である。パターンA及びBとの決定的な違いはそこで想定されている読者層が我が国最大の読者層である団塊世代ではなく、より若い「団塊ジュニア世代」以下であるという点にある。通常、これら若い世代は書籍を読むのではなく、青年期以降、あるいは世代によっては生まれてこの方慣れ親しんだインターネット上における「言論空間」に影響を受けやすい。そのためのこのパターンCの著者たちも基本的にはインターネット上でまずは個性的な言論を展開し、リアルな書籍を刊行して人口に膾炙するというパターンを辿るに至っている。

パターンCもパターンA及びBと同じく、自らの不遇の原因を「より巨大な他者」に求め、それを徹底的に糾弾し続けている点に特徴がある。ただしそこでいう取り上げられる「仇敵」は強大な我が国の政府機構という意味での「国家」ではなく、しかも「国際金融資本とそれに操られる米欧エリートのネットワーク」でもない。リーマン・ショック(2008年)以降、実際には日米当局間の了解に基づいて行われた円高展開の中で好景気に沸いた韓国をやり玉に挙げる点にパターンCの特徴がある。

パターンCの「愛読者」は上述のとおり、団塊ジュニア世代以下の比較的若い世代である。なぜ彼らが時に熱狂的な支持をこれらの著者に対して表明するのかといえば、金融資本主義の我が国における本格的な展開による「被害者」であるという自己認識があるからだ。しかしパターンA及びBと異なるのはそうした被害者意識によって「国家からの離脱」を模索するのではなく、むしろ「幻想の共同体としての『国家』への帰属意識」を強めている点にある。マーケットにおいてますます激しくなるヴォラティリティの中で世間から、企業から、そして時には家族・友人たちからも見放されるに至ったこれらの世代はインターネット空間で喧伝されるヴァーチャルなビッグ・ブラザーである「国家」へと吸い寄せられているのだ。

そうした状況をパターンCの著者は巧みにとらえた。チャールズ・ハンディの「シャムロック型組織(Shamrock organization)」ではないが、金融資本主義の高度な進展に伴いエマージング・マーケットの興隆が続く中、決してコモディティ化しない付加価値を生むためにはまずは就労者自らが「グローバル/イノヴェーション/リーダーシップの三位一体(Global/Innovation/Leadership-Trinity)を身につけなければ生き残ることは出来ない。だがいかんせん、この世代が受けた学校教育はそれに対応するものでは全くなかったのである。いわゆる「平成バブル崩壊」のプロセスが進展するに従い、一人また一人とこの世代の者たちは我が国経済のメインストリームから弾かれていき、脱落していった。

そこに来て「円高・ウォン安」を絶好の機会としてとらえ、宣伝攻勢をかけてきたのが韓国だったのである。健全な国民国家としての態度を越え、ここぞとばかりに「美男美女」集団によるマスメディアを通じたプロパガンダ攻勢をかけつつ、我が国に対して「過去の清算」を求めるその態度はこれら世代にとって格好の標的となる形になった。つまりパターンAにとっての「強大な我が国国家機構」、そしてパターンBにとっての「国際金融資本とそれに群がる米欧エリート・ネットワーク」に相当する”永遠の攻撃対象”がそこでロックオンされたというわけなのである。

パターンCの著者は容赦なく隣国・韓国を攻撃し、こうした新しい世代の読者層から拍手喝采を浴びた。そうした光景に目を付けたのが我が国の保守系政党勢力であった。「高まる不満」ほど人々を政治、そして投票行動へと駆り立てるものはない。パターンCの著者らに「国政選挙への切符」を手渡し、甘言を弄する代わりにこれら新しい世代の読者層からの集票を戦略目標とした我が国の保守系政党勢力はこれら著者らに出番を与え、そのプロモーションを行った。

こうして、元来はインターネット空間の一隅において孤高の叫びをか細くあげているに過ぎなかったこれらの著者は一躍ヒーローとなったのである。その様子を当初は怖々と見ていた団塊世代以上という意味での旧世代の「読者層」も徐々にその言論にはまり始めた。そしてそのことでパターンCの著者は更に大きな渦を創り上げることに成功する。

なぜならばこれらの著者は隣国・韓国との「永遠の歴史論争」を繰り広げるため、我が国の「絶対的な優位性」を主張し続けるというスタンスをとっているからだ。当然それは文化的なものにとどまらず、国民経済という観点でも「我が国は絶対的に優位である」という主張になってくる。具体的には「我が国はデフォルトなど絶対にしない。民間セクターの対外債権をこれだけ保有している国がそうした事態に陥るわけがない」といった一見すると理路整然とした、しかしその実、金融資本主義の動き続ける実態を全く前提としていない、その意味でイデオロギー的な主張がそこでは特徴的なのである。

パターンCの著者はグローバルな人的ネットワークに基づいてリアリティを描いているわけではない。たとえ「多産家」であったとしてもそこで展開する議論の前提としているものは公開情報であり、その一面的な解釈に過ぎない。しかし熱心な読者にとってそんなことはもはやどうでも良いのである。劣悪になり続ける生活環境の中で「代弁者」として登場したこれら著者の勇ましい姿に自らの境遇を投影し、熱心に支持し続けている。無論、こうした著者とそのバックにいて彼らを支えるプロモーション産業がある種の「貧困ビジネス」を展開しているとは全く気付かずに、である。

一見するとこれからますます繁栄の一途を辿って行きそうなパターンCであるが、残念ながらそうはならない。なぜならばそれが大前提としてきた「我が国はデフォルトなど絶対にしない」という教条(ドグマ)がもはや現実とは全く合致しないことが早ければこれから2年後、遅くとも5年以内に誰の目にも明らかになるからだ。無論、最後の瞬間までこれらパターンCの著者たちは「日本は大丈夫だ」と言い続け、さらには旧世代の財務省批判論者(高橋洋一ら)と共に「デフォルト・リスクの異常な高まりは既得利権を代弁する財務官僚による陰謀だ」と叫ぶことは間違いない。だが結局のところ、そんなことを叫び続けたところで何ら意味がないことは明明白白になるのである。―――なぜならば統治機構という意味での「我が国」は事実上のデフォルト処理によって大混乱に陥るのであるから。



さて、このように2005年頃より続いてきた「国家」を巡る思潮は程なくして激変を迎えることになる。それではそこで生じる新たな方向性は一体どのようなものなのであろうか。

デフォルト・リスクの高まりは決して我が国のみにおける現象ではない点にその特徴がある。そうであるにもかかわらず、我が国における「国家論」は決してそのことを顧慮せず、他方で経済アナリストたちの述べる「国富論」はこの問題が国家論の再構成につながることを語ろうとはしないのである。そこに我が国言論界に特徴的な内向性が如実に浮かび上がっているわけであるが、視線を海外、特に米欧の言論界に転ずるならばそこでは果たしてどういった議論が展開されているのであろうか。

こうした観点から筆者が注目しているのが英国の有名経済ジャーナリストたちの手による次のような一節である(John Micklethwait & Adrian Wooldridge, "The Foruth Revolution. The Global Race to Reinvent the State"):



"The Fourth Revolution will be no easier: The half success of the Reagan-Thathcer reforms shows that. It will force many Westerners to rethink two things that are widely regarded as self evident goods: the welfare state and the practice of democracy." (p. 269)



"This revolution is about liberty and the rights of the individual. That is the tradition that propelled first Europe and then America forward. The West has been the world's most creative region because it has repeatedly reinvented the state. We have every confidence that it can do so again, even in these difficult times." (p. 270)



要約していうと今現在、課題となっている本当の論点はこうだというのである:



●金融メルトダウンを通じて起きているのは「国家とは何か、どうあるべきか」という永遠の課題に関する”第4の革命”とでもいうべき現象である。そしてこれは米欧に限られる出来事ではなく、エマージング・マーケットも含め、全世界で「競争」とでもいうべき状況を創り出すに至っている

●なぜそのような事態が生じているのかといえば、これまでの国家システムにおいて暗黙の前提とされてきた「民主主義」によって増進されるはずの「国民福祉」が、公的債務残高の天文学的な増大という状況の中でもはや立ち行かなくなってしまったからである

●つまり問題は目標としての「国民福祉」、そしてその手段としての「民主主義」について再検討すべき時期が到来している点にある。だが、そこでの立脚点はあくまでも個人の自由であり、権利であるべきだ



これで明らかになったのはこれから必要なのが上述のとおり、我が国における「国家」を巡る3つの思潮(パターンA~C)に典型的であった「国家からの自由」ではなく、自らの頭で新たに「公」そして「国家」を再定義し、それをその手で創り上げるという意味での「国家への自由」なのであるということなのだ。その意味でパターンA~Cは完全に効力を失うことは明らかなのである。それらが議論の前提としてきたパラダイムそのものが音をたてて変わるのであるから。

だが、この本の著者たちが述べているように「立脚点はあくまでも個人の自由であり、権利である」などと果たして言っていられるのかどうかは甚だ疑問ではある。我が国において伝統的な陰陽五行説に現状をあてはめて考えた場合、次のことが分かる:







●日本銀行による異次元緩和によって通貨、すなわち陰陽五行説でいう「水」が極限まで増えてしまっている。たとえていうならばこれが決壊してしまった場合、我が国社会は大洪水に巻き込まれることになる。すなわち「ハイパーインフレーション」である

●そのためこれを抑え込むには「水克火」あるいは「土克水」の原理を使うしかなくなってくる。ここで「火」とは要するに戦争経済へ移行することを意味している。他方で「土」は我が国の国土が甚大な被害を受け、激変を蒙ることを意味している(激甚災害)

●日本国憲法が当面の間維持されることは自明であるため、「火」すなわち戦争経済による問題の抜本的な解決はあり得ない。他方で米欧をはじめとするそれ以外の世界各国は憲法上のこうした制約を一切受けることがないため、同じく量的緩和による悪影響を打開すべく戦争経済へと一気に移行していくことになる。その結果、逃げ場を失いかけた「水」=マネーは我が国に怒涛のごとく流入することになる。それによって我が国はバブル(「日本バブル」)の本格化を迎えるが、しかし何もしなければハイパーインフレーションになるという状況そのものに変わりはないのである

●そのため、我が国はますます窮地に陥ることになる。すなわち「何も起きなければ」ハイパーインフレーションに陥らざるを得なくなるのである。だがそこで人智を越える展開としての激甚災害が発生すれば状況は一変する。想定されるべきは「太陽嵐」から始まり「南海トラフ大地震」「富士山大噴火」に至るまで我が国の国土を一変させる事態である



いかがであろうか。―――これで安倍晋三総理大臣が、表向きの理由はともかく、「なぜ集団的自衛権の行使を可能にし、戦争経済への道を開いたのか」、そして「国土強靭化のための政府予算を大量に割き、女性の建設労働者の増大を図っているのか」が理解出来たはずだ。

そして事態はもはや単なる数合わせとしての多数決をベースとした「民主主義」では一切前に立ち行かないことも明らかなのである。そこには全くもって新しい政治原理、しかも私たち日本人に限らず、およそ「ヒト」が拠って立つ天と地という森羅万象との和合を旨とするそれが登場しなければならないというわけなのだ。



いよいよ私たちはこの論考を通じ、我が国において「天皇」が担うべき全く新しい主導的な役割について考えるべきステージに到達したようである。次回はこの点について端的に論じることとしたい。



原田武夫記す

(2014年10月12日 旭川にて)

・・・  



 
 
ちなみに私の考えは、BとCに一部が重なります。
デフォルトあり、戦争あり、天災あり。

例えるならば、トーナメント戦ですね。

まず、韓国と一戦を交わします。
その後に、国際金融資本ですね。

デフォルト前には、国内のテロ組織撲滅が必要です。
そうしないと、治安が保てません。
在日や左翼が対象ですね。

米国をはじめ、各国がテロとの戦いを強調している背景には、近々デフォルトがあるからでしょう。
また、天災はいつ起こるかも分かりません。
(いろいろと陰謀はあるかとは思いますが)

一方、相手となる韓国。
こちらも財政が破たん寸前です。

韓国は、敗戦をデフォルトの理由にするのではないかと思います。
重大な被害を受けた場合、日本も同じかもしれません。
意外なようですが、両者の思いは似ているんですね。

天災はその後でしょうね。
国土に甚大な被害が生じると、デフォルトせざるをえません。


一方、国際金融資本との戦いは、人類がお金を必要とする限り、勝てないでしょう。
残念ながら、支配力に差があり過ぎます、、、。

  
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